「ギャル」の包容力


Zoomgals - GALS feat.大門弥生 (YAYOI DAIMON)

Zoomgalの新曲「GALS」のMVを見ると、「ギャル」という概念の広さに驚く。

あっこゴリラ(1番目のラップ)やvalknee(3番目)は正統派のギャルっぽい格好に見える。一方、なみちえ(2番目)はギャルというかヤンキーだし、大門弥生(最後)はスケバンだ。

にもかかわらず、不思議と「ギャル」という箱に入って違和感がない。「ギャル」という概念の持つ包容力、なんでも「ギャル」にできてしまう言葉の力にはびっくりする。

キーワードは「はみだしている」という感覚だと感じた。Zoomgalsの格好は外見はそれぞれ全然異なる。でもなんとなく統一感が取れている。それは、制服のように外見で統一感を出すのではなく、服が示す意思の強さが統一感を生んでいるからだと思う。「(普通から)外れてる」「勢いが良い」「自分らしさを強く打ち出している」という感じ、既存の枠に収まりきらずはみ出している感じ、大門弥生のリリックにある「は?ギャルの鉄則?なんてあるようで無いし好きにやりや」の精神。それが曲の中に満ち満ちている気がする。

この曲を見ると元気づけられるのがだが、「ギャル」のパワーを浴びているからかもしれない。

 

怒られと敬意

会社で怒られたとき、そのまま謙虚に指摘を受け入れられる時と受け入れられない時がある。差を考えてみると、相手への経緯のあるなしだなあ、と感じた。

怒ってくる相手に対して敬意を持っていると、相手の内容に集中して自分のこととして受け止めることができる。でも、経緯を持っていない相手に怒られると、内容が頭に入ってこない。「その言い方むかつくな」「それは勘違い・曲解でしょ」「そんな偉そうに色々言ってるけど、自分の仕事はどうしたんだよ」などなど……。枝葉の部分に気を取られて、反省する気になれない。

 

生の言葉で書くこと

 

若林正恭の著作で「表参道のセレブ犬~」と、次作の「ナナメの夕暮れ」は一読しただけだが、心に残っていた。今回、文庫版になり新しい内容が追加されたので、迷わず買った。

 タレントにせよ一般人にせよ、人のエッセイで心が動かされることは少ない。おそらく、語りが退屈だからだ。奇を衒って書いた文章は、その人の熱が込められていないから、言葉が上滑りしてしまう。あるいは、上滑りしないように書くと、どこかで聞いたようなうまいこと・きれいなこと・正しそうな言葉で埋め尽くされてしまう。どちらにしても退屈だ。

若林正恭のエッセイは、退屈でない。別に、見たことも聞いたこともないような事件が起こったりしないし、読んだことない斬新な文章で埋められているわけでもない。にもかかわらず退屈でないのは、語りが熟成されているからだ。何遍も心の中で悩み考え、凝縮され、濾過された来たような濃い語り。若林正恭という人間の温度が感じられる語りが、感動的だ。

巻末の解説でDJ松永が「生々しく生きていこう」と誓った、という文章がある。そう、若林の文章は生々しい。そして、ただ生々しいだけでない。思いついたことをその場で話すような生々しさではなく、思いついた言葉の奥にある生々しさの塊のようなものを投げかけてくる。その鋭さ、固さに、心を打たれるのだ。

感想:ミゲル・ストリート

 

ミゲル・ストリート (岩波文庫)

ミゲル・ストリート (岩波文庫)

 

1950年代、トリニダード・トバゴのミゲル・ストリートを舞台とした短編集。

出てくる男性は大抵働いてないし女子供はすぐに殴るし、で碌な人ではない(今の基準に照らせば)。ただ、貧困の中にも、自分たちを突き放したような乾いたユーモアがある。そのユーモアは英国から米国に植民地の管轄が移るなど、自分たちではどうしょうもない流れに色んなことがコントロールされてしまう悲哀が通底してるのかな、と感じた。

短編の一つに駐留するアメリカ軍の軍人と親しくなることでどんどんアメリカかぶれになる男の話がある。軍人と「どちらがより下品な言葉で話せるか競うように話した」という場面が特に印象的で、妙に甘酸っぱい読後感があった。

 

解説によると著者のナイポールは、晩年には「トリニダード・トバゴは西洋に比べて遅れている」というタイプの考え方を持つようになり、同じカリブ海出身の後輩作家たち(彼らもナイポールの作品を読んでいた)から批判されることになるらしい。この作品に感じられる住民達から一歩引くような冷めた書き方を、さらに突き放すように発展させると、そういう思想に辿り着くのかもしれない。一方で、この短編集には「一見して無能なものと共に生きる」というテーマの作品も多い。そういった部分がカリブ海の後輩作家に響いていたのかもしれない。

「野球離れ」を食い止めるにはまず調査では?

toyokeizai.net

 

上記事では、少子化よりも早いスピードで進行する小学生・中学生の野球人口減少について、懸念を示している。

そもそも野球人口が減っている原因は何なのだろうか。文中では下記のように言及されている。

原因としては、地上波でのプロ野球中継の激減、野球ができる遊び場の減少、格差社会が進行する中での親の負担の増加、競合するスポーツの増加、そして「昭和の体質」が抜けない野球のイメージ悪化、などが考えられる

 

もちろん、それぞれが原因である可能性は高いが、より重要な要因を特定しなければ、効果の高い施策を実施することはできない。例えば、低下を食い止める策として子供向けの野球教室等を取り上げているが、本当にそれは対策として効果的なのだろうか?

子供向け野球教室が効果的な状況は「子供たちが野球をやることの楽しさを知らない」という状況が野球離れの主要な原因になっている場合だ。しかし、いくつかの記事を見てみると他の要因のほうが大きいのでは?という疑いが出てくる。

headlines.yahoo.co.jp

 上記の記事では、子供が少年野球に前向きだとしても、金銭的・時間的な負担の大きさから両親(特に母親)が敬遠している様子が書かれている。もしこれが主要な原因であれば、子供に野球教室をやっても野球離れの改善は難しい、

headlines.yahoo.co.jp

この記事では興味深いことが書かれている、小学生〜高校生までの野球人口は減少傾向にあるが、大学では増加傾向にあるというのだ。

中学、高校とは対照的に、大学硬式の部員数は増加している。2007年の2万人から2018年には2万9千人に増加(45%増)し、過去最大になった。なお、日本人男子の大学進学率は増加しているが、少子化の影響もあり、大学に進学する男子数自体は増えてはいない。

 大学生は高校生以下の年齢と違い親が金銭的・時間的な負担をほとんど負っていない、と予想される。とすれば、ますます「少年少女ではなく両親が野球を避けている」という可能性が高くなる。

 

ここまで書いてきたことはすべて仮説だ。しかし、こう考えると、「野球離れのメカニズムについてよくわかっていない」ということがわかる。だから、野球離れを防ぐための次のステップは「子供に野球を習わせることをやめてしまった親へのヒアリング調査」や「野球以外の習い事(特にスポーツ)をさせている親へのヒアリング調査」であるべきだと思う。しかし、調べたところそういった調査はおろか、高校生以下の野球人口について全体を把握している組織すらないらしい。そのような状態では、情報の共有もできないだろうし、改善は難しいだろう。

最初の記事にも書かれていたように、野球の競技人口減少を食い止めるには、プロから小学生まで各組織が連携することが必要だ。そしてなによりも現状の把握が必要である。

 

説得されるための時間

 

この記事を読んでとても「現代的だな」と思った。それは、本の筆者が「説得される」というプロセスがごく短時間で行われるものとみなしていること。事実と論理が示されたらすぐに説得されるはずだ、と考えているように見える。だからすぐに説得されないと「事実や論理では説得できない」という理屈になってしまうのではないか。

 

自分に置き換えて考えると、自分の意見を変えるというプロセスはもっと時間がかかるものだ。まず、説得してくる人や提示されたデータを疑って、そこから色々なデータに触れたりすることで徐々に説得されていく。「A

が正しい」から「Bが正しい」にすぐに移り変わるのではなく、その間には「Aが正しいと思ってるけど前よりも自身が無い」とか「Bが正しそうな気がしてきた」といった中間的な状態を経ている。意見が変わる時間は何週間とか何年とかそういう単位でかかる。

「説得して意見を変えるには時間がかかる」ということを頭に入れてコミュニケーションを取ることが、大事なのではないかと思う。

 

書評:ハックルベリー・フィンの冒けん

 

ハックルベリー・フィンの冒けん

ハックルベリー・フィンの冒けん

 

 

トム・ソーヤーの冒険」は子供の頃に何回か読んだ。しかし続編であるこれは初めて読んだ。

記憶にある「トム・ソーヤーの冒険」と比較して、皮肉めいた物語は減り冒険の疾走感が非常に高まってるように思う。あとがきでも書かれていたように「トム・ソーヤー」が三人称の物語なのに対して本作は一人称。ほとんど無学で万事を即興で乗り越えるハックルベリー・フィンの語りだからこそのグルーブ感だと思う。

そして柴田元幸の翻訳が実に素晴らしい。ハックルベリーは聖書や偉人伝を誤って覚えていて、それを共に旅するジムに物知り顔で伝えるのだが、そこのおかしみが、難しい漢字は全部ひらがなになっている訳文とマッチしている。