書評:トヨタ物語

 

総評

生産現場の系譜からトヨタの歴史を辿ろうという試みは良いと感じた。ただ、トヨタへの肩入れが強いことと全体構成に不満が残る。

 

良かった記載

ベンチャー時代のトヨタの描写が豊富

トヨタ自動車といえば今や日本のトップ企業だが、創業当時はベンチャー企業だった。そのあたりの話がエピソードとともに載っているのが興味深かった。

トヨタが自動車生産を始めたのが1937年くらいからで、開戦までトラックがバンバン売れていたのに戦時ではトラックが軍に徴発されちゃうから民間企業がトラックを買わなくなったとか、戦後のインフレに耐えられず倒産の危機になって労組との争いの結果社長が辞めたりとか、ベンチャーらしく時流に揉まれながら生き抜いていた。

トヨタ生産方式といえばカンバンとかジャスト・イン・タイムとか色々言われているが、煎じ詰めると「ベンチャー企業が大企業(GMとかフォード)と戦って生き延びるための方法論」なんだ、ということが時系列で追うとよくわかる。ベンチャー企業であるトヨタ自動車は資金的に余裕がないので仕入れた材料を早く売って売上を立てて資金ショートさせない必要がある。なので仕掛かり品をできるだけ減らす必要があるし、不良品も無くさなくてはいけない。在庫が減れば倉庫代もかからなくて済むし。そこから始まった、と考えると大量生産による原価低減の逆を行くような仕組みも腑に落ちる。

大野耐一がなぜトヨタ生産方式を具現化できたのかわかる

トヨタ生産方式を思いついたのは初代社長の豊田喜一郎だが、工場の生産ラインのなかで具現化していったのは大野耐一(とその弟子たち)である。ではなぜ大野耐一が具現化できたか、というと紡績工場での経験があるから、ということがわかる。紡績工場という異分野の生産体制を理解した上で自動車工場に落とし込んでいたのでイノベーションが起こった、と考えられる。

 

疑問に感じた記載

トヨタへの批判に適切に応答していない

書籍の中ではトヨタトヨタ生産方式に対する外部からの批判が記載されている。だが、著者はその批判に対して実態を調べることなく「理想的なトヨタ生産方式ではこうはならない」「トヨタ関係者はこのように話している」といった記載を繰り返し、疑問に適切に答えていない。

例えばトヨタがいわゆる「下請けいじめ」をしているのではないか、という批判についてこのように書いている

トヨタに限らず、メーカーの人間は協力会社の人間に「お前のところは下請けだから」といった表現を使うことはない。メーカーの人間は協力会社がなければ自分たちがなりたたないことをよくわかっている。(中略)

だが、政治家、マスコミ、仕事の現場を知らない大多数の人は大企業に製品を納入する業者を「下請け」「孫請け」と呼ぶ。実際の現場でそういう呼び方をする人は、ほぼ、いないにも関わらず……。(P.281-282)

このようにトヨタがまるでそういう行いをしていないかのように書いている(直後にも「トヨタは元々過酷な要求をしていない」と書いている)。しかし、相手をどう呼ぶかはともかくとして「下請けいじめ」的な実態があることは下記報道等から明らかである。

トヨタに「異議あり」 新日鉄住金と2重価格:日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO39889090Q9A110C1000000/

ノンフィクション作家とはいえ、ここのバランス感覚が明らかにトヨタに傾いており、非常に違和感がある。トヨタにならって「現地現物」で実態を把握するべきではないか。

もしくは、取材に協力してくれたトヨタを批判する文章が書けないなら、世間に対する反論を無理に書く必要はなかったと思う。

山場がよくわからない

物語の最初にトヨタアメリカ初の工場ケンタッキー工場の話が挿入されており、いち読者としては「ケンタッキー工場という国も人種も違う人たちに対するトヨタ生産方式の移植が、本の山場なのかな」と期待して読んだ。しかし、そこはかなりサラッと語られてしまう。後半からは生産方式を広める人たちの人物伝や豊田章男の半生になってしまい、生産方式が各現場でどのように進化していくのか、移植していくのかというテーマはあまり触れられないのが残念だった。

雑誌連載をもとにしてる以上仕方ないとはいえ、もう少し全体構成に工夫が欲しい。

AI人材の育成よりもAI人材が活躍する環境整備が大事

政府、AI人材年25万人育成へ 全大学生に初級教育:日本経済新聞 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO42932250W9A320C1SHA000/

 

このところ、「AI人材」を育てよう、という目的の政府主導の取り組みをよく見る。報道を見る限りAI人材というのはプログラミングを通じて機械学習アルゴリズムなどを作成したり活用したりできるスキルを持った人、という感じだ。

もちろん、AIを使って社会を豊かにしていくためには、今後このようなAI人材は一定数必要になるだろう。しかし、AI人材が活躍するためには周囲の環境を整えることの方がよほど大事なのでは?と思う。

例えば、AIを有効に使うためには「AIを使ってなんかいい感じにしてくれ」というような丸投げな関わり方ではなく「この問題を解決するためにAIによるデータ分析の結果を活用しよう」と具体的に考える上司(などの意思決定する人)が必要になるだろう。あるいは、機械学習アルゴリズムなどにとって一次データの質がとても重要であることを理解し、データの精度向上や収集に協力してくれる関係者も必要になるかもしれない。AI人材が単体でいればうまくいくのではなく、組織全体でAIに関するリテラシーが向上することで、初めてAI人材も活躍できる。逆に、そういったリテラシーが低い組織に「AI人材」を入れたところで、彼らが価値を発揮することは難しいだろう。

日経新聞を読んでいると、様々な問題が語られたあとで「AIの活用によって解決を図る」といった意味の文章をよく見る。あたかもAIを導入すれば自動的に問題解決されるような書き方に感じる。そんな魔法の杖のような「AI」を期待して「AI人材を育成する」と言っているのであれば、都合が良すぎる発想だ。管理職や直接AIの設計に携わらないスタッフ含め、問題解決の一ツールとしてAIをとらえ、組織的にリテラシーを上げる取り組みを行わなればAI人材は活用できずに終わるだろう。

カフェをやる若者

自分の家の近くにカフェがある。そのカフェは静岡市内に3つも店舗を構えていて、どの店もいつもお客がいる。

新聞や雑誌の記事では「地方消滅」なんて煽情的なキャッチコピーで地方都市と大都市(東名阪)が比較されている。でもそんな地方都市にもカフェを開いて大きくしていっている若者がいると思うと、消滅なんていうワードが本当に正しいのか?という気がしてくる。もちろん静岡市は地方といっても県庁所在地なので、若者の減少が起こるにしても周辺よりもゆるやかなのだろうけど。

 

身を貫く春一番の紺屋町エスプレッソ待ちに流れるエミネム

駐車場

今の家の近くにあるスーパーは、店と同じくらいの面積の駐車場がある。みんな車で来ているらしい。静岡の人は東京の人と違ってメインの移動手段が車だ。

だからなのかもしれないが、静岡駅前を除いて店が集中してない。自分は車を持っておらず自転車で移動しているが、それなりの距離を移動しないと2軒目のスーパーに行けない。東京は駅前にスーパーが固まっていたので、徒歩で買いに行けた。

おかげで、好きなお酒を買うために割と遠くのスーパーに行く必要があり、ちょっとめんどいを。ちょっとだけね。

 

スーパーの地産地消コーナーの見知らぬビール420円

体が引っ越した

東京から静岡に引っ越した。今までの土地勘が全く通用しない土地に来て、自分が変えられていくのを感じる。ここの通りを抜けるとここに出るんだ、とか、安いスーパーはここだ、そういうことをイチから覚えるのが楽しい時期だ。

 

妻に付いていって引っ越します、ということを前の会社の人に話すと、優しいねぇとか不安じゃない?とか言われた。毎度恐縮していたが、自分は不安よりも楽しみが大きい。引っ越して知らない環境に放り込まれることで、否応なしに自分が変わらざるを得ない。新しい部屋の収納に対処し、新しい街の地理に順応し、新しいビアバーのメニューを覚える。自分というのはこの身体だけの自分じゃなくて、周りも含めて自分なんだなぁと実感できる。自分はこうだ、とか、こういうものが好きだ、と思っていた認識が覆される(覆らない時もある)。それが楽しい。

 

ここの水そのまま飲めるし飲んでみて水道水をコップに注ぐ妻

 

ミスコンは廃止すべきではないのでは?


ミス・アメリカ 水着審査を廃止 | NHKニュース

 

今回の決定の理由は「女性を外見で評価すべきではないなどとする長年の批判」らしい。でも、本当に問題なのは「女性を外見で評価してること」ではなく「外見で評価すべきてない状況で、外見で評価される機会が女性に多い」ことなのではないか?

仕事の能力で評価されるべき会社で、競技の能力で評価されるべきスポーツの現場で、外見をあれこれ言われるのは、私が見る限り女性の方が多い。その状況を変える手段として「外見で評価するイベントを廃止する」というのが正しいとは思えない。

男女の権力関係が存在するなら審査員は全部女性にすれば良いし、見る/見られるの関係に非対称性があるなら、男性版ミスコンをやればいいのではないか。

外見で評価するイベントはイベントで維持しつつ(「競技の能力で評価するイベント」があるスポーツと同じように)、セクハラには男女一眼となって対処する、というのが望ましい流れに思える。

今2ちゃんねる(5ちゃんねる)を見る意味

趣味のことを話したいとき、2ちゃんねるをよく見る。Twitterまとめサイトのコメント欄に比べて落ち着いてる気がするからだ。インターネットが本格的に普及し始めた95年ごろに大学生だった人も、今や40歳にならんとしてるのだが、そういった年齢を感じる。30年くらい前の出来事だったら、リアルタイムで体験してる人が割といる。もちろん荒らしもいるが、慣れたもので完全スルーだ。

5ちゃんねるは仕様で、名乗らない限り24時間経つと名前の同一性が消失する。それくらいの温度感がダラダラ話すには向いているんだろう。Twitterはアテンションを稼ぐことにフォーカスしすぎて、煩い。ダラダラするには5ちゃんねるが一番である。インターネットおじいちゃん。