もはや話題にならない東日本大震災と原子力発電所事故について

この記事を書いている時点で、はてなホッテントリに上がっている49記事の中で震災関係は4つしか無い。

はてなブックマーク - 東日本大震災4年 東浩紀さん・川上未映子さん対談:朝日新聞デジタル

はてなブックマーク - 3月11日に想う…エンタメは人が生きるために必要なものなのか?ゲームやアニメなんかが本当に必要なのか?という話。 - Togetterまとめ

はてなブックマーク - Google 未来へのキオク - あの日から 4 年

はてなブックマーク - あれから、今日でちょうど4年経った。

 

たったの4年しか経っていないのに、もはや社会は、ほとんど興味も関心も無くなってしまったんだな、とつくづく思う。別に今日なにか特別な大事件が起こったわけでもないのに。

2011年3月11日まで、ほとんどの人は東京で使っている電気の一部が原子力発電所という施設で作られていることや、そのリスクに関して都合よく忘れていた。なぜ福島にあるのか、そこではどのような形で地域と原発が関係しているのか。知ろうと思えば知ることが出来たが知らんぷりをしていた。そして大事故があって4年経って、また知らんぷりだ。

 

24時間365日考えることはムリだろう。考えたって問題は複雑すぎるし、当事者じゃない人たちは解決することも出来ない(当事者でも難しい)。でも、今日この日だけは、「これまで」と「これから」について考えるべきじゃないだろうか。「問題が複雑だから」「考えても解決するとか限らないから」「福島の人間じゃないから」「あれは天災だったから」「事故を事前に予測することは出来ないから」……。福島や原発のことを考えなくてもいい理由なんていくらでも思いつくからこそ、考えるべきではないか。

 

事故のことばかり考えて悔やんでもしょうがない、前に進もう。その意見は正しい。ただ、前に進めばいいってものでもないだろう。何もかも忘れて、無視して、目をそらして、なかったかのように、前に進むのは「悪」であると言いたい。

意識低い料理おじさんの道具選び


料理オッサンの道具選び

 

簡単に料理する、というタイプの記事は定期的にホッテントリに上がってきて人気ある(しかし実現できない)んだなあ、と感じさせます。ライフハック系の記事と同じ系列ですね。

自分はほぼ毎日自炊をしているのですが、ここに書いてあるような良い道具を持っていません。ハンドブレンダーとかフードプロセッサーとか使ってません。じゃあなにを使っているのか。

 

小さめの片手鍋

和平フレイズ ダブルマーブル IH対応片手鍋18cm WR-6293

和平フレイズ ダブルマーブル IH対応片手鍋18cm WR-6293

 

最も使用頻度が高いのが、マーブルコートの片手鍋(ブコメにも書きました)。

@nifty:デイリーポータルZ:ミルクパンがあればなんでも出来る

ここの記事を見てくれればわかりやすいのですが、この鍋1つでほぼ日常の料理全てができます。会社から帰って毎日料理するとなると、そこまで複雑な料理は作れません。そこまで複雑でないなら、これ1つで十分です。

 

 口径の大きいフライパン

和平フレイズ ダブルマーブル IH対応 フライパン 22cm WR-6777

和平フレイズ ダブルマーブル IH対応 フライパン 22cm WR-6777

 

フライパンは 開いた鶏もも肉を焼き付けたりする時に使います。なので片手鍋より口径が大きい物を。あまりに大きいと使いづらいので、自分は22cmを使ってます。これもマーブルコート。ある意味使い捨て感覚でガンガン使ってます。

 

ステンレスの包丁

ヴェルダン 三徳庖丁 165mm OVD-11

ヴェルダン 三徳庖丁 165mm OVD-11

 

 包丁はメンテナンスが楽なステンレスを。鋼はカッコいいですが錆びやすい。ステンレスの三徳包丁一個で、大概の料理はできます。シャープナーか砥石を使って2週間に1回くらい研ぐとずっと切れ味が保てて料理しやすい。切れない包丁はストレスになるし危険なので研ぎましょう。

 

まな板(プラスチック)

適当にスーパーで買いましょう。まな板は包丁ほど料理のクオリティに影響しません。お金があるならオリーブのカッティングボードとか、檜のまな板とか代えばいいと思いますが、木製はちゃんと乾かさないとカビるので、プラスチックでいいんじゃないかなと思います。メンテナンスが楽。

 

100均のタッパー(中くらいのもの)

一人暮らしの料理で困るのが、スーパーで食材を買って作ると確実に余ること。かと言って同じものを何日も食べると速攻で飽きます。なのでタッパーで保存するのは大事。

タッパーは電子レンジOKでスタックできるものを買いましょう。電子レンジで使えると、皿を出さずに済む(=洗い物が少なくて済む)ので便利。スタックできると場所を取りません。大きさは小さいと入らないし、大きいと邪魔なので中くらいのを。

 

ざる

  

 

ミズリードII 18-8両手付丸型ザル 24cm 足付 SH9013

ミズリードII 18-8両手付丸型ザル 24cm 足付 SH9013

 

 

 野菜炒めを美味しく作るコツはしっかり洗った後、野菜の水分をしっかり払うことです。ということで意外とざるは使います。切った野菜とか置いておけるしね。ボウルは普通の皿で代用できますが、ざるは代用できないので持っておきましょう。

自分が持っているのは上記のものとは違いますが、取っ手などがあってフックに引っ掛けられるものだと、狭いキッチンで場所をとらなくて済みます。意外とでかくて邪魔なのだ、ざるは。

 

メンテナンス重視で選ぼう

そこまで料理が好きじゃない人が、料理を定期的にしようと思うと、できることがたくさんある道具よりも、メンテナンスが楽な道具の方が価値は高いと思います。なので管理しやすい道具を買いましょう。

マック食べてる?~一次情報に触れる意味~

 

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

 

 自分が何かと目を通す本の1つに、この本がある。この本を読んで理解してある程度実践できるようになった今、ステマでも何でもなく、仕事のスピードが倍になったと思う。

 

この本の中に「一次情報を大事にしろ」という文章がある。現場に直接赴くことによって、新聞や論文ではこぼれ落ちてしまう情報を掬うことができる。それは明確な仮説を立てる上で、大変重要である、という内容だ。

 

はてなブックマークをよく見ているせいか、最近一次情報の大事さが本当に身に染みるようになった。はてなブックマークソーシャルブックマークなのでどうしても二次情報になる。最近では新聞記事に言及したまとめサイトのブックマークコメント、など「もはや何次情報だ」というものに触れることが多くなってきた。もちろんこういったN次情報も役に立つことが多い。でも、N次の情報で頭がいっぱいになって、本当に自分の言葉で、自分の感覚で述べる事ができる事象が減っている気がする。これは危険なことだと思う。誰かが言ったことを思い出して繰り返すマシーンになってはいけない。

 

最近、マクドナルドについての報道を見ると、「あんな不味いもん食えないよ」という言及が多いし、人気も高い。僕もそんなもんかなーと思っていた。でも「一次情報に触れたほうがいいな」ということでマクドナルドに行って、食べてきた。

久しぶりに食べたマクドナルドは美味くもなってなければ不味くもなってなかった。昔と変わらないマクドナルドだった。期間限定商品の「ハワイアン バーベキューポーク」も値段相応に美味しかった。僕の舌は(自己分析だが)実に普通の感覚だと思う。ということは、マクドナルドの売上が下がっているのは、マクドナルドが不味くなったからではないんだろうし、期間限定商品が仮に売れないとすれば、味を改善しても意味はなさそうだな、ということが予想できる。この予測は現場に行って食べないと自身を持って言うことが出来ない。

 

インターネットで頭でっかちになりやすいからこそ、現場に行って体験するって大事だなあ、とすごく感じる。

曽野綾子氏の「薄さ」に愕然とした


曽野綾子さんインタビュー “差別でなく区別です” 「荻上チキ・TBSラジオ Session-22」 - NAVER まとめ

 

今回の曽野綾子氏の「差別記事寄稿問題」で最近特に思うのが、「知識階級の知識の薄さ」だ。

 

問題の記事や上記のインタビューまとめなどを読んでいて、曽野綾子氏が差別に関する基本的な知識や認識をまるで了解していないことに驚いた。彼女の差別に関する考え方は、そこら辺の中学生と同じような知識レベルであり、世界に対する想像力もそれと同じようなものだ。このレベルの人が一角の人物として新聞に寄稿しているのか、と思うと暗澹たる気持ちになる。

 

私は知識人が人種差別主義者であることに意外性は感じない。ただ、人種差別主義者であるならば差別に対する基本的な論説や問題を踏まえた上で、それを乗り越える形で人種差別の論理を展開するのが、「知識人」に求められる振る舞いだと思う。仮にも政治的にセンシティブな問題を新聞に寄稿するレベルの「知識人」であるならば、「差別ではなく区別」などという使い古された、そして不勉強であることが明らかであるようなセンテンスを使ってはならないだろう。人種差別について語るならば最低限の理論武装はしておいて欲しい。仮に、自分の言説が人種差別的であることを、書いていて読み取れなかったのであれば、その読解力や常識の無さに呆れる。

 

私は曽野綾子氏の寄稿そのものも当然問題だと思うがそれ以上に、「曽野綾子氏の寄稿に問題があると見抜けなかった産経新聞」「曽野綾子氏の文章を掲載しながらも「人種差別には反対する」という稚拙な言い訳をする産経新聞」「人種差別という問題に不勉強であるばかりか、無知であることを認めず傲慢な態度を取る曽野綾子氏」といった知的活動を担うべきと期待されるあるいは担っていると考えられているプレイヤーたちが、どれもこれも知的に「薄っぺら」であることの方が、問題が根深いと思う。

やっぱり「読まないけど馬鹿にする」でいいんじゃないか?


「読んでないけど馬鹿にする」でいいんじゃない? - 食う寝る起きる考える

という題名の記事を書いたら「じゃあ読んでないけどお前の記事批判するわ」と言われたので、色々補足を書く。

 

論点は「~~していない人間は~~をしてはいけない」と「批判していい人間を規定する基準」における、妥当性だ。

ライトノベルについて語るなら読まなくちゃダメだ、というのはなんとなく妥当に思えるが、何を読んだら「ライトノベルを読んだ」と判定できるんだろうか。今から書店に行って「Fate/strange Fake (1)」を読めば「ライトノベルを読んだ」と自称していいのか。「このライトノベルがすごい!」に載っている本を全巻読めばいいのか。「ロードス島戦記」まで読まなくてはならないのか。

「これを読んでいないならば、批判する資格が無い」というブックリストが仮にあるとしても、このブックリストは10人いたら10人違うだろう。なぜAという作品はライトノベルを批判する資格を得るために必要で、なぜBという作品は必要ではないのか。なぜCという作品を読むだけではライトノベルについて批判してはいけないのか(資格が得られないのか)。妥当な基準を誰もが納得できる形で作ることは出来ない。出来ない以上、そういった資格を作ることは間違っている。

もちろん「ライトノベルを批判できる資格の基準」を各々が持つことは自由だ。その基準に他の人が賛同してくれるかもしれない。でもそれは一般的な基準ではないし、そのような基準を持って他人に「お前には批判する資格が無い」と強制することは出来ない。出来るのは「~~をしていない以上、お前は~~する資格が無いと俺は思う」と言うことだけだ。その規範を相手が受け入れるかはわからない。

 

結論としては「お互い思ったことを言い合えばいいじゃない」ということだ。なんにも知らなくても批判することは自由だし、その批判に対して批判するのも自由だ。

"type-100 カジュアルに批判してもいいけどこちらもカジュアルに罵声を浴びせるので"

ほんと、それでいいと思う(罵声はどうかと思うが)。

「読んでないけど馬鹿にする」でいいんじゃない?


私がラノベをバカにしている唯一の理由 - 360万パワー

 

ライトノベルに限らず、「特定のジャンルに対して表層的なイメージから批判すること」はそのジャンルの愛好者から逆に批判されます。もちろん愛好者が語る「もっと読んでから(勉強してから)批判しろ」という批判はわかるのですが、しかし、素人の口を塞ぐような言動はどうかな、と思います。もっとカジュアルに批判してもいいんじゃないかと。

 

はっきりいえば「ちゃんと批判できるほど知識を得る」というのは大変に高いハードルです。ライトノベルを「ちゃんと勉強しました」と言える読書量って多分50冊では利かない。何か意見をいうために何十時間もそのジャンルについての知識を蓄えないといけないとしたら、意見を言えるジャンルは非常に限られてしまう。

ジャンルに対する世間一般のイメージというのは間違っている可能性も大いにありますが、いわば「学習の省略」の機能を果たしていると考えられます。あらゆるジャンルに対して精通することが不可能だからこそ、詳しくない何かについて語るときには世間一般のイメージというものを踏み台にせざるを得ない。これはその人の怠慢ではなく、人間の認知的限界だと思います。

 

ですから「ライトノベルって子供っぽいよね」「ライトノベルって逆ハーレムものばかりなんでしょ?」という批判はアリです。ただ、その際に「自分は全く読んでないし、世間一般のイメージに即して語らせてもらうけど」というエクスキューズをつけ、詳しい人に事実関係の間違いを指摘されたら素直に受け入れる、という謙虚さがあって初めて成立する批判だとは思いますが。

 

「詳しくない奴は黙っていろ」という言説は原理的には「一番詳しい人以外意見を言えない世界」ということになります。それって息苦しくないですか?

結婚するには恋愛は重要だと思う


恋愛至上主義への皮肉たっぷりな月9ドラマ「デート」が面白すぎる|ゆがみちゃん|note

 

この記事(というか「デート」というドラマ)で語られている恋愛至上主義(=恋愛が他のどのような活動よりも重要度が高く、崇高な行為であるという考え方)の否定には共感できますが、恋愛と結婚が別物、という考えには納得出来ない。

 

ドラマ内で主人公たちは「かつては恋愛感情と無関係に結婚していた」「恋愛結婚が一般的になった現代の方が離婚率等が高い」ということを根拠として恋愛と結婚の関係性を否定している。その上で「恋愛感情を排した結婚という契約」の優位を述べる。でもそれは論理として正しくない。

かつての結婚はイエ同士の関係構築の手段やイエの存続の問題と関わっていると考えられる。そうであるならば、当人同士の気持ちなんてものは関係ない。結婚する主体は問題ではなく、「イエ」という主体が重要ならば、感情を無視して結婚できた(させられた)。離婚率の低さはイエというものを守るために女性がイエに隷属させられ、立場としても経済的にも自立していなかったからじゃないだろうか。

登場人物たちが「恋愛抜きの結婚は行われていた」という証拠として示してきた「結婚」は彼らの考える「結婚」とは異なる。彼らは「契約」というスキームで結婚を考えている。契約は自発的な選択が可能な個人間でのみ成り立つ。しかし、過去の結婚は自発的な選択が可能な個人が行っている行為とは言えないのではないか。むしろ「契約」というスキームで考えているからこそ、「契約破棄」としての離婚を選択する人が多くなっているのではないだろうか。過去の「恋愛感情を抜きにした結婚」は「有益な共同生活」を作っていないのではないか。

 

契約というスキームで結婚を考えるのであれば恋愛は欠かせないと思う。この文脈での「恋愛」とはトレンディドラマ的な惚れた腫れたではなく、「相手を知るためにデートや会話を重ねること」である。普通、企業でも契約のまえに支払い能力の有無などについての信用調査を行う。結婚という契約を交わすに足る相手なのか?ということを確かめる上で長い期間(まさに「病める時も健やかなる時も」)、時間を共にすることは必要だと思う。その意味で恋愛は結婚に必要だ。