「辛いまま生きるか、辛くないように死ぬか」を選ばせる前にできること


尊厳死について…多くの死を見てきた医療従事者たちのコメントが心を打つと反響:らばQ

 

尊厳死についてのコメントを見ると「苦しんで長く生きるよりも、短くてもいい人生を送りたい」という意見が多い。その考えが間違っているとは言わない。ただ人生の質=QOL(quality of life)の低下を尊厳死の理由とする考え方は、障害を社会的に補助する力を弱める可能性がある、ということを忘れてはならない。
 
QOLの低下という概念の中には感覚的な痛みだけでなく、見た目の変化であったり自由であったりということが含まれる。例えば病気によって首から下が全く動かなくなってしまった人のことを考えてみる(痛みの症状は一般の人と変わらないとする)。彼は独力で動くことも食事をすることも排泄の始末をすることもできない。彼のQOLは下がったといえるだろう。就労が不可能であることに加え、障害者専用の器具や医薬品も必要になることで家族の金銭的負担が増大する。生き続けるためには恒常的に家族などの親近者のサポートを受け続けなければならず、双方の心理的負担も大きいと考えられる。彼が「家族は長く苦しみ、自分のQOLも低い。尊厳死を希望する」という考えに至るのは自然に思える。
 
だが、彼のQOLの低下は障害が発生したことだけが原因ではないはずだ。例えば障害者の就労を手助けするサービスが存在して少しでも金銭的な負担を軽減できるとすれば、少しでも自治体による支援があって週に何回か公的機関から介助者が派遣されるサービスがあったならば、テクノロジーの力を借りて独力で生活できる(もしくはできることを増やす)ことが出来るならば、彼のQOLは上がるはずだ。QOLの低下の原因は障害だけでなく、障害者をサポートする体制の欠如に起因するものも多くあるはずだ。
 
これらのサービスはQOLの低下を尊厳死の理由としないことによって初めて意味が見えてくるサービスに他ならない。私が尊厳死称揚の流れで危惧するのは「QOLが下がったら、低いQOLで生きるか、尊厳死することを選んで下さい」という選択肢が強調され、社会全体で障害者のQOLを上げる、という選択肢が不可視化されることだ。人々が「自分で選択した」ことで「自己責任」を押し付ける怖さは、フリーター問題や引きこもり問題などで明らかになっていることだ。
 
長く生きるのがなにより素晴らしいとは思わないし、耐え難い痛みを前に尊厳死を選ぶその心は想像に難くない。ただ、QOLという御旗のもとに障害者の生が軽視されたり、ましてや社会のサポートの欠如を「尊厳死を選ばない責任」に帰するような考え方が出てこないか、それが非常に不安である。
 
参考


安楽死や自殺幇助が合法化された国々で起こっていること / 児玉真美 / ライター | SYNODOS -シノドス-

 

 

アシュリー事件―メディカル・コントロールと新・優生思想の時代

アシュリー事件―メディカル・コントロールと新・優生思想の時代

 

 

 

英語で調べて考察してみる「欧米では~~をやってる」論


日本人は自分たちのルーツを知る必要がある | 中原圭介の未来予想図 | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイト

ブックマークでも非難轟々の記事ですが、このブログでは少し別の論点から考えてみたいと思います。それは「英語で調べた?」ということです。

なぜかわからないですが、未だに「欧米では~~である」という一文によって自分の論の根拠とするような論説があります。「欧米で行っているから必ずしも善ではないのでは?」「欧米で良い政策(や行動様式)をそのまま日本に当てはめて効果があるのか?」といった疑問が湧き上がるものも多いですが、「そもそも欧米の実態からして違うんじゃない?」という論説も見られます。今回もその例です。欧米では~~と言われたら英語でネット検索をしてみて、本当に事実かどうか調べたほうがいいと思います。

冒頭の論説のロジックから考えてみると、この文章の構成は

  1.   欧米では民族のルーツに関わるような宗教教育が行われている
  2. 欧米でやっているのだから日本でもやるべきだ

というものです。この論理展開もどうかと思いますが、論理の前提として「欧米の学校では、子どもたちに旧約・新約の両聖書やギリシャ神話を必ず教えています」(原文ママ)という事実がなければいけないのです。で、実際どうなのかは少し調べればわかります。

 

まずはWikipediaから

Religious education in primary and secondary education - Wikipedia, the free encyclopedia

 

初等教育及び中等教育における宗教教育」という項目があり、その中でフランスの項目があります。曰く、「フランスでは、宗教教育は宗教的道徳教育(市民、法、社会の教育)に置き換えられている」と書かれています。聖書を教えることを非宗教的な教育というには無理があるので、Wikipediaが嘘をついていない限り、フランスでは聖書を学校で教えてなさそうだな、とわかるわけです。

別のソースを当たってみます。これはEconomist誌の2013年9月の記事で、イングランドとフランスの宗教政策の違いに関して述べています。

http://www.economist.com/blogs/erasmus/2013/09/religion-and-education-england-and-france

ここでは「生徒たちは必ず"あらゆる形の改宗から守られなくてはならない"」「教師と生徒は同様に、政教分離原則の理想を尊重する義務だけでなく、実際に行動する義務がある」という憲章が教育大臣によって発せられた、と書いてあります。政教分離原則を掲げる国の公的教育機関で聖書が教えられるとは考えづらいですよね。

 

というわけでこの論説が根拠にしていた欧米の学校では、子どもたちに旧約・新約の両聖書やギリシャ神話を必ず教えています」という事実は相当に疑わしいことがわかるわけです。まあ、フランスを欧米に含めなければありなのかもしれませんが。そもそも、ヨーロッパとアメリカの学校の中で旧約聖書新約聖書ギリシャ神話を教えていない学校が一校あっただけで、この論拠は崩れてしまうので、かなり危ういといえるでしょう。

 

今回検証に使った記事は「religion class」「religion education france」といった大学受験レベルの英単語をGoogleに打ち込めばすぐに出てくるような記事です。英語で調べると「欧米では~~」と言われているのが実際どの程度信憑性があるのかがわかります。面倒臭がらずに調べるといいかもしれないですね。

 

というかこの記事を書いた人は「最近、欧米でのイスラム教徒のブルカ問題とかあることを考えると、宗教的なものを公的教育機関で教えるのは難しくないか?」という常識とか、「欧米で聖書が教えられているかちょっと調べてみよう」というファクトベースで考えることとか色々抜けている気がします。ココらへんってコンサルタントの基本な気がするんですが……。

イベントにかこつけて日本を自画自賛するのはやめませんか?


東京国際映画祭の広告コピーが物議 映画人から不満続々「最低だ」「恥ずかしい」 : J-CASTニュース

 

最近の日本って何かのイベントにかこつけて自分たちを称揚するのが大好きだなと感じます。しかも大抵の場合、単に自画自賛するのはさすがに説得力がないと感じているのか①外国人に褒めさせる②昔の伝統を介して自画自賛する、という傾向にあります。

 

自分がその流れで一番残念だなと思ったのが2014FIFAワールドカップブラジル大会で、NHKのサッカー公式ソングの題名が「NIPPON」だったこと。ワールドカップというサッカーのビックイベントなのに、テーマソングが日本を題材にしたもの、日本をこぶするような内容って、随分貧しい感性だなと思いました。もっとサッカーの楽しさや興奮を伝えてくれるような曲にして欲しかったと思います(その点では2010年のタマシイレボリューションは素晴らしかった)。

 

景気が悪くなって、自国を誇りに持ちたい気持ちは察するけど、映画やサッカーというコンテンツにかこつけて自国を自画自賛するというのは、みっともないなあと強く感じます。

もし僕が下半身不随になったら

寝る時に「明日起きたら体が動かなくなってるかもな……」ということをよく考える。

右半身が動かなくなっていたらこうやって動いて救急車を呼ぶ、とかシミュレーションしてる。

幸運にも今までそうなったことはないけど、今まで起きてないことが明日も起きないなんてことは全く保証されないことは、20数年生きていればわかる。

 

障害者に対する罵詈雑言だったり、生活保護に対するバッシングだったりを見ると、あまりの想像力のなさにびっくりする。みんな自分の人生をコントロールしているつもりになっているけれども、果たしてそんなことってあるんだろうか?自分の人生がこれまでなんとなくやり過ごせてきたことは、自分の努力とともに運が良かったと思わないんだろうか?自分が「マイノリティ」と言われるような人間になる可能性があり、そうなった場合、今、自分が投げている言葉を誰かにそっくりそのまま言われるという事態を想像できないんだろうか?

 

障害者が住みやすい社会を作ることは、「障害者になった自分」に住みやすい社会を作ることでもある。自分はLGBTではないけれど、自分がLGBTに生まれなかったのは自分の努力ではなく、ただの偶然だ。だからLGBTが住みやすい社会を作ることは「偶然」LGBTに生まれてしまった自分が住みやすい社会を作ることと同じだ。

 

自分の属性の多くは努力の結果ではなく偶然の産物である。そう思う人は差別をしないのではないかと思う。

「自由」はスマートフォンに必要か


スマホ時代の“中心のない”ポータル目指す「Syn.」構想--KDDIら12社が発足 - CNET Japan

 

auの新しいサービスに非難轟々というか「またキャリアが訳のわからんサービスを作りおった」的な嘆息が聞こえてくるのですが、ここで気になることが1つ。

 

批判の中には「こうやって囲い込んで、自由にインターネットに繋ぐことができるスマートフォンの良さを消すなよ」というものが見られます。でもそれって本当に価値なんですかね?

自分の周囲を見ていると、インターネットにつながってるかどうかなんてかなりどうでもいいんですよ。TwitterFacebookInstagramが見れて、楽しいアプリが落とせれば。インターネットにつながっていることは本質的な価値ではないと思う。

Syn.が良いサービスかどうかは「どのアプリを囲い込めるか」「どれくらいUIを整えられるか」に尽きると思います。グノシーやスマートニュースを見ても、テレビCMを大量に打てば、ある程度のダウンロード数は稼げる。そこから持続的に使ってもらうにはアプリの質に関わっていると思う。

僕は何故ゆるりまい氏のように物を捨てないのか~断捨離と価値合理性~

近年、片付けの手段としてだけでなく、ライフスタイルの一つのあり方として「断捨離」が持て囃されています。詳細はWikipediaの「断捨離」が詳しいですが、要は「余計なものを手に入れない、すでに持っている余計なものは物への執着をなくして捨てる」というプロセスを経て快適に暮らそう、ということですね。

 

関連本の中でも書店で人気になってるのは「なんにもない」シリーズを書いている「ゆるりまい」氏。彼女は本当に物を捨てまくっていて、広いリビングにまるでモノがなく、壁にテレビだけがかかっている図は壮観です。断捨離に興味を持っていた自分は、整理の参考にしようと本やブログを読んでみました。

ただ読み進むうちに彼女の断捨離には少々違和感というか恐怖感を覚えました。少し考えて理由はわかりました。彼女の「捨てること」への執着心です。彼女はとにかく捨てようとします(本人も「捨てたい病」などと称している)。熱心、というより執着としか言えないようなこだわりようで物を捨てるのです。夜中に何を捨てるか妄想したり、同居人に物を捨てることを半ば強制したり、物を捨てるためにクローゼットとリビングを何往復もしたり。ここまで読んで「参考にならん」と本を閉じた。

 

なぜ、僕は彼女の行動を参考にできないのでしょう? それは彼女と僕の「捨てる」という行動に対する価値の差だと思う。

僕が何のために捨てるか、といえば「物を減らして生活のコストを下げたいから」に他なりません。収納スペースを減らして家賃を下げたい、使わないものを減らして物を探す手間を省きたい、掃除を楽にしたい。僕にとって物を減らすことは快適に暮らすための手段でしかない。だから何時間も物を捨てることに悩んだりしない。かけるコスト(何を捨てるかを考える時間と気力)に比べてリターン(捨てた結果減る日々の苦労や金銭的負担)が少なすぎるからです。

私見ですが、ゆるりまい氏は「捨てるために捨てている」、つまり捨てることが自己目的化しているように見えます。だからこそ「捨てること」に沢山の時間や気力を割けるんです。

 

社会学者のマックス・ヴェーバーは行動の合理性において「目的合理的行為」と「価値合理的行為」という2つのカテゴリーを作りました。前者は何らかの目標に対して効率的な手段を取るような行為、後者は行為そのものの価値を結果とは無関係にもつような行為、例えば宗教行為などです。

僕にとっての「物を捨てる」は目的合理的行為でしたが、ゆるりまい氏にとっては「価値合理的行為」だったのです。彼女に対する「何故物を捨てるのか」という問いは、キリスト教徒に「なぜ神を信じるのか」という問いに近しいものだと思う。

 

断捨離という考え方はものに対する執着から離れて、少ない(気に入った)ものと共に身軽に生きることを提唱していました。その考えが先鋭化すると「捨てる」という考えに執着するようになるというのは、なんだか皮肉なものですね。

 

 

サッカー年代別代表はPDCAを回していないから勝てないのではないか?


ドメサカブログ : 【AFC U-19選手権】日本は中国に競り負け黒星発進 南野スーパーゴールも実らず

残念ながら中国に負けてしまいました。コメントや試合を見ていると「日本の選手は技術は高いけど勝てない」というのが実情のようです。これは選手個人のスキルや心構えの問題じゃなくて「どういう形でゴールを取るか」という設計図を日本代表全体で共有できていない、という仮説が立ちます。これが事実ならばいくら試合をしてもPDCAが回せず、組織の能力が効率的に改善されません。

 

少し前の話になってしまいますが、なぜブラジルワールドカップを総括する雑誌の記事で面白い逸話を読みました。それによると、コートジボワール戦のあと、長谷部誠は「速いテンポで縦に素早く繋ぐサッカーこそ、自分たちが目指していたサッカーだ」という旨の発言をし、遠藤保仁は「横や後ろへのパスを多用してゆっくりでも崩しきるのが、自分たちが目指していたサッカーだ」という旨の発言をした、というものです。つまり、当時の日本代表が掲げた「自分たちのサッカー」=「攻撃的なパスサッカー」の中身が、個々人によって全く違うものとして捉えられていた、ということです。A代表の中心選手2人ですらこれなのですから、下の年代も推して知るべしといったところだと思います。

 

日本サッカー協会はもっときちんとPDCAを回すべきです。「攻撃的なパスサッカー」のような漠然とした、個々人によって解釈が可能なものではなく、もっと攻守においてディテールを突き詰めた戦術(例えば:4-4-1-1を基本としたコンパクトで最終ラインが高い守備ブロックを作り最前線を除く10人で厳しくチェックに行き、サイドでボールを奪う。奪ったら縦に速いカウンターをファーストチョイスにして、中盤の選手も含めた6人程度でパスをつなぎながらサイドを崩してゴールを奪う、とか)を監督や選手が共有しているのか?それを実戦で使用してみて組織的レベル、個人のレベルで何が足りなかったのか改善可能な形で把握しているのか?それを育成や次の試合に結び付けられているのか? そういった組織のブラッシュアップをやっているのかきちんと検証するべきではないでしょうか?試合やりました、負けましたでは選手も組織も何も成長しません。せっかく南野拓実を筆頭にして才能ある選手たちが揃っているのだから、是非有意義に対外試合を使ってほしいと思います。