「死ね」は抗議ではない。暴力だ

安部首相が笑っていいとも!に出演。その時間に合わせてアルタ前に集まってデモしていた集団がいるらしい。別にデモはいい。好きにすればいい。でも「死ね」という言葉は最悪だ。それは抗議ではない。侮辱だ。

 

政治において重要な事は「相手に発言の自由を認める」ということだ。どんなに自分の気に入らない発言をしようが、相手が何者であろうが、その口をふさいではならない。これは権力者である/ないとは全く無関係だ。一般市民は安部首相に「死ね」と言って良くて、安部首相が「死ね」といってはいけないのではない。誰が、どんな相手に言おうと、政治の文脈では「死ね」は間違っているのだ。それは対話を、自由を、多様性を殺す言葉だからだ。「死ね」という言葉はデモではない、政治ではない、政治行為ではない。ただの暴力だ。

 

「死ね」と言った人は本質的に政治というものを「自分の思い通りに行く世界を作る」ことだと思っている(少なくともそう取られても仕方がない)。これは、彼らが反対してるであろう在特会に代表されるような差別主義者と何ら変わらない。対話による和解や共存ではなく、暴力による排除であり抹殺。それが「政治」なのか? それをもたらすためにデモをやっているのか? 残念ながらそんな人達が支持を得ることはないだろう。

この暴力的弾圧を支持している人間のアイコンにレインボーカラーがあるのが信じられない。何を思ってそれをつけているのか? LGBTを支持するかじゃない、それは多様性への寛容の証ではないのか?

 

僕は政治的人間でありたい、対話をする人間でありたいと思うので「死ね」とは言わない。ただ、二度と彼らには「寛容」とか「反差別」とか「反暴力」を語ってほしくない。

ベビーシッター利用を批判する筋違い

ベビーシッター紹介サイトを通じてベビーシッターを利用したところ、預けた子供が死んでしまうという事件が起こった。

 

このシッターには厳正な処罰を望む。一方でこの事件を契機に「やっぱりシッターを利用させるなんてよくない」という風潮が生まれることを危惧している。

 

子育てする家庭には様々な事情がある。皆が皆24時間子供に付き合っていられるわけではない。仕事があるかもしれないし病気にかかるかもしれないし、育児にひどく疲れてしまうかもしれない。その時子供を一時的に親や知り合いに預ける事ができる環境ならば問題ないかもしれないが、そうではない家庭だって多くある。その時、ベビーシッターが利用可能であるということは非常に便利なはずだ。

 

少子化を解消したい、と本当に思っているなら「子育てできる最低条件」を下げるような環境づくりを整備するべきだ。今の日本では、心も体も超人的に強いか、「片方が世帯年収+子供の養育費を稼ぐことが出来、もう片方が24時間子供に付き添っていられ、友人や両親など一時的な預け先が近くにある夫婦」という非常に限られた人たちだけが、安定した子育てができるような状態だ。少しでもこの条件から漏れると安心して子育てができない、しかも育児の責任はすべて親に帰属される、とわかっている環境で子育てをしようと積極的に思えるだろうか?  スーパーマン(スーパーウーマン)か恵まれた環境に生まれないと子育てが出来ない社会では少子化になるのは当然と言えるだろう。

 

今回の事件もきちんとした分析を行って、シッター利用をするような子育て家庭に対してどのような支援をするのがもっとも適切かを調査するべきだ。そうでなくては死んだ子供さんがあまりにも浮かばれない。

エビデンスベースドの前にやるべきこと

「エビデンスベースト」が日本の教育を変える〜中室牧子氏に聞く

 
この記事で語られているのは「人的リソース、金銭的リソースが限られている以上、教育の分野でも統計的なデータを取って、最も費用対効果のいい政策をうつべき」というもの。実にそのとおりだと思う。しかし、今の教育でやるべきはその前段階ではないだろうか? つまり、「教育とはどのような人間を育てることを目標にするのか」という基準を決めること。
 
エビデンスベースドは基準の上で、どの方法が最も効率よく目標を達成できるか、ということを測るのに非常に適している。しかし、エビデンスベースドは目標を決めることはできない。「どのような能力を持つ生徒が優秀であるか」という物差しを決めない限り、エビデンスベースドは有効に機能せず、異なった基準に対する最適な方法が乱立するだけで終わってしまう。
 
今の日本の教育問題の根幹には基準作りの失敗があると考えられる。過去の詰め込み型教育への反省から「生きる力」を育てるような教育(いわゆるゆとり教育)へとシフトしたが、学力テストの点数の低下などからその方向もすぐに修正され、学習時間も増加した。これら一連の迷走は、いったい「教育を通してどのような人間を育てることを目的とするのか」という基準が曖昧だったからに他ならない。もし、詰め込み型教育、ペーパーテスト重視を否定するのであれば学力テストの点数の低下は仕方ないと捉えるべきであるし、テストの点数の低下を批判するのであれば、応用的な学びの充実は捨てざるを得ない。これが迷走するのは政治の責任であるし、ひいては国民間での「いったい教育を通してどのような人間を育てることを試みることがいいのだろうか」という問いを熟成してこなかった責任でもある。
 
教育予算の効率性や次世代育成の強化においてエビデンスベースドは非常に重要であるし、これからさらに広がるべき考えであると思う。しかし、有効に機能するには「教育」という行為の意味や目的を国家内できちんと熟慮する必要があるのではないだろうか。

「対立点があるから付き合わない」でいいの?

ここ最近、日中関係、日韓関係が悪化している、という報道が多い。そのような記事の中には「これ以上韓国や中国と仲良くする必要がない」というタイプの記事もある。これが先鋭化すると「戦争だ!」という過激な記事に変貌する。

なぜ仲良くする必要がないかといえば、利害関係の対立というよりも、歴史問題などを通じて信用出来ない国であることが明らかになったからだ、という意見が大半だ。つまり自分たちの歴史認識に同意していな=共通認識に達しない以上友好関係にはなり得ない、ということらしい。この手のサイトや発言者の多くが親日的な台湾との友好関係強化を訴えているのを見ても、歴史の見解などで共通認識に達する=対立点を無くすことが重要視されているようだ。

 

しかし、共通認識に達することがそこまで重要なのだろうか。対立点をなくさなければ国家間で協力することは出来ないんだろうか? このような考えは非常に幼稚だと思う。

第二次世界大戦において日本は韓国や中国を侵略した(これを「侵略」ではないというなら、世界中に侵略はなかったという認識になると思う)。「侵略―被侵略」の関係が終わってからたかだか60年程度しか経っていない。その両国で当時の歴史的事象に関する見解が異なるというのは当然のことだと思う。この対立が解消されるには時間が経過し、「風化」すること待つしか無い。つまり近日中に対立点を無くすることなどできない。

となれば、対立点があることを含みながら協力関係を築くことが一番賢い戦略なのではないだろうか? 「あいつ俺達のいうことに賛成しないから喋んのやめようぜ」とでもいうような選択は小学生なら許されるだろうが、隣国に対して一国家がするべき態度ではない。心にわだかまりを抱えながら、協力していく場面では握手をしていくような、そんな強かさを持つべきだ。相手の言うことに盲従するでもなく、潔癖症的に「仲良し」を求めるのでもなく、協力するところと意見をするところをきちんとわきまえた、そんな大人な国家になって欲しい。

責任を取ること。原発の過去と未来について。

明日は3月11日。今から3年前に東日本大震災とそれに起因する原発事故が起こった。3年経って、東京にいて強く感じるのは「なかったコトにしたい」とでも言うべき、無関心だ。

 

あの事故は、多くの原因が絡みあった複雑なものであること、東京電力原子力研究の密室性が事態を悪化させた(今も悪化させている)こと、そしてそれらは一般市民が介入できない形で起こっていたこと、これらはすべて事実だ。しかし、福島第一原発が首都圏への電力を供給するために稼働していたこと、そして、自分を含めた東京都民もその恩恵に預かっていたことも事実。であるからには健康や安全における被害を被っていたとしても、別の一面では我々も加害者の側に立っているのだ。

しかし、その反省はひどく薄いように感じられる。それは3年経ったから風化した、というようなものではなく、事故から1年も経たないうちから「忘れたい、関係無いものとしたい」というような感情を私は感じている。それは、あの事故の時、そしてその後の節電の流れの中で「こんなに看板を光らせる必要はない」「今までのように室内の温度を上げたり下げたりする必要は無い」という気付きがあっという間に忘れ去られ、無意味な明るさと不必要な冷暖房がすぐに復活したことと無関係ではないと思う。あの日以降、電気を無駄に使うことは福島第一原発の事故への無反省を示すものと言えないだろうか。

 

 

「家庭用の電力の消費量より、企業の消費電力の方が多い。家庭の節電の影響は微々たるものだ」「自分一人が節電をしたところで、他の人が少し過剰に使えば無意味になってしまう」そういった指摘があることも理解できる。しかし、と私は言いたい。原発の無反省な使用への反省や贖罪とは、そういった経済効率性とは違う尺度で考えなければならない、と。新しいエネルギー政策や企業や公共機関の節電は経済効率性を重視して行われるべきだが、罪の贖いは効率という尺度では計れない。使っていない灯りを一つ一つ消す、暖房や冷房の温度を少し緩める、そういった一つ一つの行為の中に宿る。何kw削減できたか、という数字ではなく、常に反省をし続けることがあの日から続く災害の被害者への謝罪の身振りではないだろうか。選挙で脱原発を華々しく訴えるのもいいだろう。しかし、反省とはそういった一発逆転の振る舞いではなく、もっとずっと地道で長く、報われない所業なのだと思う。

みのもんたは「いじめ」の首謀者だ

<みのもんたさん>これっていじめじゃないですか (毎日新聞) - Yahoo!ニュース

みのもんた氏の辞任に関しては私自身は反対だ。成人した子供の起こした問題をその親が責任を負うべきではない。これは責任という概念の範囲の問題だし、ここが守られないことは法の基本的な理念に背くことになると思う。仮に「世間」がなんと言おうと「成人した息子は一人の人間だ。自分にはコントロール出来ない」とするべきだ。

 

一方でみのもんたは自業自得だ。彼がテレビで人気を博したのはまさに過剰に責任を求める「世間」に迎合し、煽ったからだ。自らが研いだ矛先が自分に向いてきた途端に「いじめだ」というのはアンフェアだ。それは自分がテレビで誰かを吊るしあげている時に言うべき台詞だった。今更言ってもすべてが遅いのだ。

剛力彩芽をダメ映画に出させるシステム

ここ1年間、剛力彩芽さんは普通の芸能人の一生分をネットで叩かれる(嗤われる)んじゃないか。僕とて剛力彩芽の演技が素晴らしいとか歌が上手いとか思ってるわけじゃない。モデル出身の女優でキャリアも浅ければあんなもん、要は「普通」だ。それなのにいろんな作品やらCMにゴリ押しされているから嫌われるんだろーなー、というのは理解できる。

でもそれって剛力彩芽のせいじゃない。

剛力彩芽は渡される仕事をただ全力でこなしているだけだ。断れば別の女優に仕事が行くだけだろうが、それではキャリアを閉ざしてしまう。スキルが低いのはしょうがない。学んでないのだから。問題なのはそんなスキルにもかかわらず仕事を振ってくる事務所、そしてそれをキャスティングしてしまう制作サイドなんじゃないか?

 

剛力彩芽(と松坂桃李)のキャリアに完全にケチをける形になってしまった劇場版ガッチャマン。詳しい感想はここらへんがわかりやすい。

超映画批評「ガッチャマン」4点(100点満点中)

映画ガッチャマンを見たことを激しく後悔する人 - Togetter

ムービーウォッチメン 『ガッチャマン』 ‐ ニコニコ動画:Q(動画です)

これらを見れば分かるが、問題は剛力彩芽の演技にあるのではなく、とにかくこの映画の脚本や演出やらとそれらをOKしてしまった制作側がとにかく最悪なのだ。

制作側が何を考えているかははっきりわからない。しかし、このレビューを見る限り「みんな知ってるガッチャマンを映画にするかー。で、人気女優とか人気俳優をキャスティングして、BUMP OF CHICKENに歌でも歌わせれば興行収入も取れるだろ。中身はヒーローの苦悩みたいなのとあとやっぱラブコメ!」という限りなく浅い考えで作っているようにしか見えない。こんな浅薄な企画ははダメ映画に結実するが、こういう人が呼ぶ「人気女優」が剛力彩芽なのだ。かくして剛力彩芽はダメ映画に出演する。

 

いつか彼女が報われますように。