僕は何故ゆるりまい氏のように物を捨てないのか~断捨離と価値合理性~

近年、片付けの手段としてだけでなく、ライフスタイルの一つのあり方として「断捨離」が持て囃されています。詳細はWikipediaの「断捨離」が詳しいですが、要は「余計なものを手に入れない、すでに持っている余計なものは物への執着をなくして捨てる」というプロセスを経て快適に暮らそう、ということですね。

 

関連本の中でも書店で人気になってるのは「なんにもない」シリーズを書いている「ゆるりまい」氏。彼女は本当に物を捨てまくっていて、広いリビングにまるでモノがなく、壁にテレビだけがかかっている図は壮観です。断捨離に興味を持っていた自分は、整理の参考にしようと本やブログを読んでみました。

ただ読み進むうちに彼女の断捨離には少々違和感というか恐怖感を覚えました。少し考えて理由はわかりました。彼女の「捨てること」への執着心です。彼女はとにかく捨てようとします(本人も「捨てたい病」などと称している)。熱心、というより執着としか言えないようなこだわりようで物を捨てるのです。夜中に何を捨てるか妄想したり、同居人に物を捨てることを半ば強制したり、物を捨てるためにクローゼットとリビングを何往復もしたり。ここまで読んで「参考にならん」と本を閉じた。

 

なぜ、僕は彼女の行動を参考にできないのでしょう? それは彼女と僕の「捨てる」という行動に対する価値の差だと思う。

僕が何のために捨てるか、といえば「物を減らして生活のコストを下げたいから」に他なりません。収納スペースを減らして家賃を下げたい、使わないものを減らして物を探す手間を省きたい、掃除を楽にしたい。僕にとって物を減らすことは快適に暮らすための手段でしかない。だから何時間も物を捨てることに悩んだりしない。かけるコスト(何を捨てるかを考える時間と気力)に比べてリターン(捨てた結果減る日々の苦労や金銭的負担)が少なすぎるからです。

私見ですが、ゆるりまい氏は「捨てるために捨てている」、つまり捨てることが自己目的化しているように見えます。だからこそ「捨てること」に沢山の時間や気力を割けるんです。

 

社会学者のマックス・ヴェーバーは行動の合理性において「目的合理的行為」と「価値合理的行為」という2つのカテゴリーを作りました。前者は何らかの目標に対して効率的な手段を取るような行為、後者は行為そのものの価値を結果とは無関係にもつような行為、例えば宗教行為などです。

僕にとっての「物を捨てる」は目的合理的行為でしたが、ゆるりまい氏にとっては「価値合理的行為」だったのです。彼女に対する「何故物を捨てるのか」という問いは、キリスト教徒に「なぜ神を信じるのか」という問いに近しいものだと思う。

 

断捨離という考え方はものに対する執着から離れて、少ない(気に入った)ものと共に身軽に生きることを提唱していました。その考えが先鋭化すると「捨てる」という考えに執着するようになるというのは、なんだか皮肉なものですね。