「読んでないけど馬鹿にする」でいいんじゃない?


私がラノベをバカにしている唯一の理由 - 360万パワー

 

ライトノベルに限らず、「特定のジャンルに対して表層的なイメージから批判すること」はそのジャンルの愛好者から逆に批判されます。もちろん愛好者が語る「もっと読んでから(勉強してから)批判しろ」という批判はわかるのですが、しかし、素人の口を塞ぐような言動はどうかな、と思います。もっとカジュアルに批判してもいいんじゃないかと。

 

はっきりいえば「ちゃんと批判できるほど知識を得る」というのは大変に高いハードルです。ライトノベルを「ちゃんと勉強しました」と言える読書量って多分50冊では利かない。何か意見をいうために何十時間もそのジャンルについての知識を蓄えないといけないとしたら、意見を言えるジャンルは非常に限られてしまう。

ジャンルに対する世間一般のイメージというのは間違っている可能性も大いにありますが、いわば「学習の省略」の機能を果たしていると考えられます。あらゆるジャンルに対して精通することが不可能だからこそ、詳しくない何かについて語るときには世間一般のイメージというものを踏み台にせざるを得ない。これはその人の怠慢ではなく、人間の認知的限界だと思います。

 

ですから「ライトノベルって子供っぽいよね」「ライトノベルって逆ハーレムものばかりなんでしょ?」という批判はアリです。ただ、その際に「自分は全く読んでないし、世間一般のイメージに即して語らせてもらうけど」というエクスキューズをつけ、詳しい人に事実関係の間違いを指摘されたら素直に受け入れる、という謙虚さがあって初めて成立する批判だとは思いますが。

 

「詳しくない奴は黙っていろ」という言説は原理的には「一番詳しい人以外意見を言えない世界」ということになります。それって息苦しくないですか?

結婚するには恋愛は重要だと思う


恋愛至上主義への皮肉たっぷりな月9ドラマ「デート」が面白すぎる|ゆがみちゃん|note

 

この記事(というか「デート」というドラマ)で語られている恋愛至上主義(=恋愛が他のどのような活動よりも重要度が高く、崇高な行為であるという考え方)の否定には共感できますが、恋愛と結婚が別物、という考えには納得出来ない。

 

ドラマ内で主人公たちは「かつては恋愛感情と無関係に結婚していた」「恋愛結婚が一般的になった現代の方が離婚率等が高い」ということを根拠として恋愛と結婚の関係性を否定している。その上で「恋愛感情を排した結婚という契約」の優位を述べる。でもそれは論理として正しくない。

かつての結婚はイエ同士の関係構築の手段やイエの存続の問題と関わっていると考えられる。そうであるならば、当人同士の気持ちなんてものは関係ない。結婚する主体は問題ではなく、「イエ」という主体が重要ならば、感情を無視して結婚できた(させられた)。離婚率の低さはイエというものを守るために女性がイエに隷属させられ、立場としても経済的にも自立していなかったからじゃないだろうか。

登場人物たちが「恋愛抜きの結婚は行われていた」という証拠として示してきた「結婚」は彼らの考える「結婚」とは異なる。彼らは「契約」というスキームで結婚を考えている。契約は自発的な選択が可能な個人間でのみ成り立つ。しかし、過去の結婚は自発的な選択が可能な個人が行っている行為とは言えないのではないか。むしろ「契約」というスキームで考えているからこそ、「契約破棄」としての離婚を選択する人が多くなっているのではないだろうか。過去の「恋愛感情を抜きにした結婚」は「有益な共同生活」を作っていないのではないか。

 

契約というスキームで結婚を考えるのであれば恋愛は欠かせないと思う。この文脈での「恋愛」とはトレンディドラマ的な惚れた腫れたではなく、「相手を知るためにデートや会話を重ねること」である。普通、企業でも契約のまえに支払い能力の有無などについての信用調査を行う。結婚という契約を交わすに足る相手なのか?ということを確かめる上で長い期間(まさに「病める時も健やかなる時も」)、時間を共にすることは必要だと思う。その意味で恋愛は結婚に必要だ。

大学の勉強は「役に立つ」


G型L型大学の区分に全面的に賛成する

L型大学とG型大学、一流以外は職業訓練校に ── 日本の教育と産業構造の行方は? | THE PAGE(ザ・ページ)

 

教育について、特に大学についての議論の中で「役に立たないことを教えていいのか」という議題は必ずと言っていいほど出ます。G型、L型の大学区分についての議論が、この論点の中では最新のトピックであると思います。しかし、この議論はそもそも決着がつきません。なぜなら「役に立つ」という単語が指している射程が殆どの場合議論している人間の間で異なるからです。

 

そもそも「役に立つ」知識とはどのようなものでしょうか。例えば、Excelのショートカットをたくさん覚えていることは仕事の上で結構役に立つでしょう。しかし、ショートカットキーの割り振りが変わったり、そもそもExcelを使わない職場に行くことになった場合役に立たなくなります。ビールの注ぎ方の習熟は特定の年代以上には効果があるでしょうが、限定的ですし、今後役に立たなくなる可能性が高いです。

翻って、経営理論はどうでしょうか?会社に入っていきなり経営理論が役に立つ局面というのはほとんどないでしょう。一方大学で教えるレベルの経営理論ならば長い間陳腐化しないで、有用性は保ち続けるでしょう。

 

知識や技能は「すぐに役に立つか」(即効性)と「どの程度の範囲まで役に立つか」(持続性)が反比例する傾向にあると思っています。学校の試験を考えて下さい。明日のテストの答えは、すぐに役に立ちます(暗記すればテストで満点をとれる)が、役に立つ範囲は狭い(明日のテストだけ)。一方、数学の理論を覚えることはすぐには役に立たない(明日のテストでその問題が出るかわからない)が、役に立つ範囲は広い(今後のテストや、他の単元で利用するかもしれない)。この法則は知識の分野がなんであれ、そして知識の担い手が誰(人だけでなく大学や国家などの集団も含む)であれ、友好ではないかと思います。総合大学の勉強(というか研究)は、入った途端に会社で使えたり、市場価値が高いようなスキルでない場合がほとんどです。しかし、それらで得た知識が役に立たないかというと、そんなことはないのではないか、と思います。それは「役に立つ」という範囲を狭く捉えているからではないでしょうか。

 

これは個人だけでなく国家でも同様です。最近の傾向として生命科学や工学など、今市場価値の高い学問に注力する余り、すぐには役に立たなそうな学問(法学とか文学とか)への資金提供が少なくなっているように思います。しかし、これらの学問においても優秀な研究者や研究機関を備えていることは、長期的な視野で考えたらとても役に立つと思います。

 

通勤ラッシュを緩和する方法を考える


はてなブックマーク - 通勤手当を廃止したらどうなる?高速道路を無料化したらどうなる? - Togetterまとめ

 

通勤ラッシュ緩和のために通勤手当を廃止したらどうなるだろう?という記事が話題を呼んでいる。自分もかねがね通勤ラッシュというものには辟易としているので、この機会に通勤ラッシュ緩和の方法を考えてみたい。

 

通勤ラッシュは「同じ時間に」「同じ交通手段で」「同じ所から」「同じ通勤場所に」「通勤する」から起こる。よって通勤ラッシュを解消するには次の5つの取り組みがある。

  1. 時間帯を分散させる
  2. 交通手段を分散させる
  3. 出発地点を分散させる
  4. 目的地を分散させる
  5. 通勤する人を減らす

これらを検討していく

時間帯を分散させる

現在、通勤時間は午前7時台から午前9時台にかけて集中している。よってこの時間帯からずれた時間に通勤することにインセンティブを与えれば良い。具体的には「各社が決めたラッシュアワーより前(あるいは後ろ)の時間に通勤する客にはキャッシュバック」などが考えられる 

交通手段を分散させる

日本の通勤ラッシュは電車通勤が大半を占めることが原因でもある。ということは電車以外の通勤に対してインセンティブを与えれば良い、具体的には「自転車通勤にも電車通勤と同じ通勤手当を支払う」などが考えられる。

出発地点を分散させる

東西線埼京線の混雑率が高いのは、その沿線に多くの人が住んでいるからである。また、同じ線でも上り下りで混雑率が全く異なるのは人が多く住む地域と住まない地域があるからである。ということは色々な場所に住むことにインセンティブを与えれば良い。具体的には「会社近くに住む人に家賃補助を多めに出す」(これは交通手段の分散にも貢献する)「社員寮を住宅地ではないところに作る」などが考えられる。

目的地を分散させる

丸の内に代表されるようなオフィス街に多くのオフィスが存在し、多くの人がそこに向かうから混雑が激しくなるのである。ということはオフィスが集中していない地域にオフィスを作ることにインセンティブを与えれば良い。具体的には「東京23区外のオフィスには家賃補助や税引き」「オフィス街にあるような高セキュリティのオフィスビルを郊外に建てるビル業者には、助成金を出す」などが考えられる。

通勤する人を減らす

通勤する人が減れば通勤ラッシュもなくなる。よって通勤しないことや通勤者を減らすことにインセンティブを与えれば良い。具体的には「在宅勤務者の割合に応じて減税」「システムの導入に補助金を出す」などが考えられる。

 

 

電車の通勤ラッシュなど百害あって一利なしだと思う(痴漢とかオフィスワーカーの疲労とか)。とはいえ何もしないで状態は解決しないので、是非これらの策を行ってほしいと思う。個人的には「目的地を分散させる」という案が一番実現可能性が高いのではないか?と思っている。

 

「できる」と「やる」の間にある高い壁


なぜライフハック記事を読み漁っても行動できないのか? - プロジェクトマネジメントの話とかいろいろ(仮)

 

ライフハックの記事を読み漁っても行動できない理由は情報過多にある、という記事だけど、私はもうひとつ根本的な理由があると思う。

 

それは「1回出来る」ということと「継続して出来る」の間には高い高い壁があることだ

例えばライフハックの主要なものの1つに「早起きをする」というものがある。早寝早起きして生活のリズムを整えて時間を有効に使おう、というものだ。なるほど納得。しかもできそうである。一回なら誰にでも。明日朝6時に起きろ、と言われたら多分9割近い人が成功すると思う。しかし1週間毎日朝6時に起きろ、と言われたら出来る人は1割もいないだろう。1ヶ月、1年、期間が長くなれば成功率はどんどん下がる。

 

この高い壁は「面倒くささ」と「言い訳」の壁だ。ライフハックや仕事術は普段自分たちがやっていないこと、つまり普通ならやらない面倒くさいことなのだ(だからやると成果が出る)。わざわざ面倒くさいことをやる人はいないのでやらなくなる。そして、人間はやらない言い訳を探すのが大変に上手い。「体調が悪い」「忙しい」「気分が乗らない」「そもそもやる意味が無い」……いくらでも考えつく。だからこの2つを乗り越えることが続ける上で肝になる。

 

ではどのようにしてこの高い壁を超えるか?僕が考えるに方法は3つある。

 

①自動で出来るように仕組み化する

わかりやすいのは積立貯金。給料振込みと同時に貯金が行われるので自分で何かをする必要がない。面倒くさくなくなる。

②やることを最高3つに減らす

冒頭の記事にもつながるコツだ。「毎日ライフハックが100あります!」ではやる気が起こらないのも当然だ。本当に必要なものに絞ろう。僕の印象ではせいぜい3つだ。それ以上は覚えられないし、できない。

③好きな人に宣言する

自分で自分に約束するから言い訳が通用するのだ。通じない相手に約束しよう。例えば恋人とか好きな人とか。自分が「この人にはガッカリされたくない」と思っている対象に宣言すればやらない言い訳を言い難くなる。

④数字で目標を立てる

目標を立てる時に陥りがちなのが、曖昧な目標を立ててしまうこと。「夜に走る」という目標では、年に1回5m走っただけでも達成できてしまってダイエットには効果がなさそうだ。「目標は達成した」という言い訳には使えそうだけど。「週3回、夕食後に1km走る」とすれば目標を達成したと自分をごまかしづらくなる。

 

2015年からいい生活をするんだ!という前向きな決意。それをムダにしないためにも小さなことでもいいから「目標をやりきる」を目標にして欲しい。

リベラルの人たち。負けを認めよう。

 

 

 今回の衆議院選挙が終わってTwitterのトレンドを見ると、この手のツイートが多く流れてきてびっくりした。「自民党議席を減らした。これが国民の意志だ」という意見。まるで彼らの主張が通ったかのような書き方だ。でも僕は言いたい。リベラル派だからこそ言いたい。

 

リベラルの皆さん。負けを認めよう。この選挙を経て与党(自民党+公明党)は1議席も減らしてない。安倍政権はこれまでと変わらずに政権運営が出来る。

 

確かに共産党民主党議席を増やした。でもそれは自民公明の議席を減らしたのではなく、維新の会や次世代の党が減らした分増えただけだ。与党は減っていない。

今回の選挙結果の数字を虚心坦懐に見れば「安倍政権は3分の2以上の議席を獲得し、政権を維持した」だ。安倍政権の「暴走」を止めるには、与党の議席を減らさなくてはダメなのに。だから、選挙前の目的は何も達成できていない。一方、安部総理は政権維持と、選挙を通じた「国民の信任を得た」という証拠作り、という2つの目標を達成した。完敗だ。リベラルは「完敗した」という地点から今後の戦略を始めなくてはならない。

 

今の状況で「でも議席を増やした」という意見は敗北を直視しないことにつながる。0-4で負けたサッカーで「でもパスは相手よりつながった」とか「点数では負けたけどチャンスはたくさん作れていた」などと言うようなものである。

勝ち負けのハードルを下げて「見方によっては」だとか「~とも言える」とかひねくれた目線を駆使して、敗北の痛みから逃げるのはやめよう。リベラルの人たちのたくさんのツイートや意見表明は安倍政権議席を1議席も減らせなかった。そこを直視しなければならない。

 

なぜ、リベラルの意見は影響力を持てなかったのか?なぜ自民公明に投票したのか?何が一番の吸引力を持っていたのか?何が足りなかったのか?投票した多くの人たちと何が乖離していたのか?こういった疑問に1つ1つ答えて、反省して、実行していかなくてはならない。今のままでは何回選挙をやっても同じ結果になる。自民党政権は勝つ。リベラルは「見方によっては」勝つ。何一つ変わらない。本当に安倍政権を止めたかったら、選挙を経て過半数の議席を手に入れなくてはならない。そこを目標にして、活動をするべきだ。

「辛いまま生きるか、辛くないように死ぬか」を選ばせる前にできること


尊厳死について…多くの死を見てきた医療従事者たちのコメントが心を打つと反響:らばQ

 

尊厳死についてのコメントを見ると「苦しんで長く生きるよりも、短くてもいい人生を送りたい」という意見が多い。その考えが間違っているとは言わない。ただ人生の質=QOL(quality of life)の低下を尊厳死の理由とする考え方は、障害を社会的に補助する力を弱める可能性がある、ということを忘れてはならない。
 
QOLの低下という概念の中には感覚的な痛みだけでなく、見た目の変化であったり自由であったりということが含まれる。例えば病気によって首から下が全く動かなくなってしまった人のことを考えてみる(痛みの症状は一般の人と変わらないとする)。彼は独力で動くことも食事をすることも排泄の始末をすることもできない。彼のQOLは下がったといえるだろう。就労が不可能であることに加え、障害者専用の器具や医薬品も必要になることで家族の金銭的負担が増大する。生き続けるためには恒常的に家族などの親近者のサポートを受け続けなければならず、双方の心理的負担も大きいと考えられる。彼が「家族は長く苦しみ、自分のQOLも低い。尊厳死を希望する」という考えに至るのは自然に思える。
 
だが、彼のQOLの低下は障害が発生したことだけが原因ではないはずだ。例えば障害者の就労を手助けするサービスが存在して少しでも金銭的な負担を軽減できるとすれば、少しでも自治体による支援があって週に何回か公的機関から介助者が派遣されるサービスがあったならば、テクノロジーの力を借りて独力で生活できる(もしくはできることを増やす)ことが出来るならば、彼のQOLは上がるはずだ。QOLの低下の原因は障害だけでなく、障害者をサポートする体制の欠如に起因するものも多くあるはずだ。
 
これらのサービスはQOLの低下を尊厳死の理由としないことによって初めて意味が見えてくるサービスに他ならない。私が尊厳死称揚の流れで危惧するのは「QOLが下がったら、低いQOLで生きるか、尊厳死することを選んで下さい」という選択肢が強調され、社会全体で障害者のQOLを上げる、という選択肢が不可視化されることだ。人々が「自分で選択した」ことで「自己責任」を押し付ける怖さは、フリーター問題や引きこもり問題などで明らかになっていることだ。
 
長く生きるのがなにより素晴らしいとは思わないし、耐え難い痛みを前に尊厳死を選ぶその心は想像に難くない。ただ、QOLという御旗のもとに障害者の生が軽視されたり、ましてや社会のサポートの欠如を「尊厳死を選ばない責任」に帰するような考え方が出てこないか、それが非常に不安である。
 
参考


安楽死や自殺幇助が合法化された国々で起こっていること / 児玉真美 / ライター | SYNODOS -シノドス-

 

 

アシュリー事件―メディカル・コントロールと新・優生思想の時代

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