もし僕が下半身不随になったら

寝る時に「明日起きたら体が動かなくなってるかもな……」ということをよく考える。

右半身が動かなくなっていたらこうやって動いて救急車を呼ぶ、とかシミュレーションしてる。

幸運にも今までそうなったことはないけど、今まで起きてないことが明日も起きないなんてことは全く保証されないことは、20数年生きていればわかる。

 

障害者に対する罵詈雑言だったり、生活保護に対するバッシングだったりを見ると、あまりの想像力のなさにびっくりする。みんな自分の人生をコントロールしているつもりになっているけれども、果たしてそんなことってあるんだろうか?自分の人生がこれまでなんとなくやり過ごせてきたことは、自分の努力とともに運が良かったと思わないんだろうか?自分が「マイノリティ」と言われるような人間になる可能性があり、そうなった場合、今、自分が投げている言葉を誰かにそっくりそのまま言われるという事態を想像できないんだろうか?

 

障害者が住みやすい社会を作ることは、「障害者になった自分」に住みやすい社会を作ることでもある。自分はLGBTではないけれど、自分がLGBTに生まれなかったのは自分の努力ではなく、ただの偶然だ。だからLGBTが住みやすい社会を作ることは「偶然」LGBTに生まれてしまった自分が住みやすい社会を作ることと同じだ。

 

自分の属性の多くは努力の結果ではなく偶然の産物である。そう思う人は差別をしないのではないかと思う。