駐車場

今の家の近くにあるスーパーは、店と同じくらいの面積の駐車場がある。みんな車で来ているらしい。静岡の人は東京の人と違ってメインの移動手段が車だ。

だからなのかもしれないが、静岡駅前を除いて店が集中してない。自分は車を持っておらず自転車で移動しているが、それなりの距離を移動しないと2軒目のスーパーに行けない。東京は駅前にスーパーが固まっていたので、徒歩で買いに行けた。

おかげで、好きなお酒を買うために割と遠くのスーパーに行く必要があり、ちょっとめんどいを。ちょっとだけね。

 

スーパーの地産地消コーナーの見知らぬビール420円

体が引っ越した

東京から静岡に引っ越した。今までの土地勘が全く通用しない土地に来て、自分が変えられていくのを感じる。ここの通りを抜けるとここに出るんだ、とか、安いスーパーはここだ、そういうことをイチから覚えるのが楽しい時期だ。

 

妻に付いていって引っ越します、ということを前の会社の人に話すと、優しいねぇとか不安じゃない?とか言われた。毎度恐縮していたが、自分は不安よりも楽しみが大きい。引っ越して知らない環境に放り込まれることで、否応なしに自分が変わらざるを得ない。新しい部屋の収納に対処し、新しい街の地理に順応し、新しいビアバーのメニューを覚える。自分というのはこの身体だけの自分じゃなくて、周りも含めて自分なんだなぁと実感できる。自分はこうだ、とか、こういうものが好きだ、と思っていた認識が覆される(覆らない時もある)。それが楽しい。

 

ここの水そのまま飲めるし飲んでみて水道水をコップに注ぐ妻

 

ミスコンは廃止すべきではないのでは?


ミス・アメリカ 水着審査を廃止 | NHKニュース

 

今回の決定の理由は「女性を外見で評価すべきではないなどとする長年の批判」らしい。でも、本当に問題なのは「女性を外見で評価してること」ではなく「外見で評価すべきてない状況で、外見で評価される機会が女性に多い」ことなのではないか?

仕事の能力で評価されるべき会社で、競技の能力で評価されるべきスポーツの現場で、外見をあれこれ言われるのは、私が見る限り女性の方が多い。その状況を変える手段として「外見で評価するイベントを廃止する」というのが正しいとは思えない。

男女の権力関係が存在するなら審査員は全部女性にすれば良いし、見る/見られるの関係に非対称性があるなら、男性版ミスコンをやればいいのではないか。

外見で評価するイベントはイベントで維持しつつ(「競技の能力で評価するイベント」があるスポーツと同じように)、セクハラには男女一眼となって対処する、というのが望ましい流れに思える。

今2ちゃんねる(5ちゃんねる)を見る意味

趣味のことを話したいとき、2ちゃんねるをよく見る。Twitterまとめサイトのコメント欄に比べて落ち着いてる気がするからだ。インターネットが本格的に普及し始めた95年ごろに大学生だった人も、今や40歳にならんとしてるのだが、そういった年齢を感じる。30年くらい前の出来事だったら、リアルタイムで体験してる人が割といる。もちろん荒らしもいるが、慣れたもので完全スルーだ。

5ちゃんねるは仕様で、名乗らない限り24時間経つと名前の同一性が消失する。それくらいの温度感がダラダラ話すには向いているんだろう。Twitterはアテンションを稼ぐことにフォーカスしすぎて、煩い。ダラダラするには5ちゃんねるが一番である。インターネットおじいちゃん。

ノート

仕事でノートを使っている。B5のKOKUYOのCampusノート。黒。5ミリ方眼。ノートには思いついたことや簡単な計算なんかを書く。

集中してないな、と自覚したときは「集中しろ!」というフレーズをノートに書く。こう書くことで自分の状態を可視化できるので、ボーッと時間を無為に過ごすことが減ったような気がする。

今仕事を終えて帰っている。今日のノートを見返すと、ページの半分くらいが「集中しろ!」で埋まっていた。残りの半分は「がんばれ!」だった。

完全に頭おかしい人のノートだ。でもまぁ特に興味も関心もないことを仕事としてやってるのだから、ある意味頭の中おかしいといえばそうもしれん。

明日は「集中しろ!」を2行くらいに収めたい。

改憲を防ぎたいのなら、護憲派は「真実を教える」モデルから脱却すべき

 

 

 

 

7/10の参議院選挙で、自民党(与党)が議席の2/3の取ること、そしてそこから憲法改正へとつなげることを阻止すべく、憲法改正反対派=「護憲派」の人たちが、積極的なキャンペーンを繰り広げています。「反アベ」をスローガンに活動を行っていますが、現在の状態では、目標達成は困難であると言わざるを得ません。

その原因は「メディアが自民党寄りだから」でもなく、「投票率が低いから」でもありません。護憲派・野党の選挙戦略が、杜撰だからだと考えています。

まず、目標の難しさについて整理しましよう。 
参議院の全議席数は242。野党が目標とする「与党の議席率2/3(=162議席以上)阻止」を実現するには、参議院全体で81議席以上を占める必要があります。今回の選挙では、参議院議席数242のうち121議席を争います。非改選(今回の選挙では選ばない議席)の121議席のうち、野党は32議席。そのためには今回の選挙での野党の獲得議席数を49議席(獲得議席率41%)以上にしなければなりません。

前回(2013年)の選挙では、投票率が53%。投票のうち与党の得票率は68%、野党が32%でした*1
前回と同様の投票率・得票率であると仮定すると*2、「議席2/3阻止」という目的は果たせません。つまり、前回よりも多くの得票数を獲得する必要があります。
そのためには①与党支持者を野党支持に鞍替えさせる②前回投票していない(おそらく今回も投票しない)人たちに野党に投票させる、という策しかありません。①は難易度が高いため、②を実現することが現実的であると思います。前回と同様の投票率・得票率であると仮定すると、今回の選挙では【投票してない人:与党に投票した人:野党に投票した人】の比率は【47%:36%:17%】。これを【23%:36%:41%】にする必要があります。投票していない人のうち半数近くを野党に投票させるわけで、これはかなり難しいです。

このような難しいミッションを達成しなくてはならないのに、護憲派の人たちの選挙キャンペーンは、効果が低いと思います。それが特に現れているのがTwitter上の振る舞いです。
上の3つは護憲派の人たちのTweetの典型例です(RTが1000以上のTweetから抜粋)。
一番上のTweetは「大手メディアはいつもの選挙だと言っているけど、実はとても重要な選挙ですよ」と言っています。
次のTweetは「投票する際に、候補者の考えと自分の考えと完全に一致しているかどうかで判断して棄権しているかもしれないけど、実はそんな候補者はいないので、投票すべき」と言っています。
最後のTweetは「あなたは知らないかもしれないけど、実は自民党員はこんな発言をしています。だから投票すべきではない」と言っています。
このように、彼らのTweetは「(知らない人に)真実を教える」というタイプのコミュニケーションが多いのです。与党支持者の切り崩しや無党派層の取り込みのために、このTweetをしているということは、彼らは「無党派層の人たちも、選挙や自民党憲法について正しい知識をもっていれば、自然に【護憲・反自民】の立場に立つだろう(そして野党に投票するだろう)」と前提のもとに行動していると考えられます。

しかし、この前提が正しいのでしょうか?自民党を支持する人たち、投票に行かない人たちは、正しい知識が欠如しているからでしょうか?僕はそうは思いません。

経済状況が本当に苦しく、「ここで政権担当能力が低い野党に政権を任せ、更に景気が落ち込んだら会社が倒産するかもしれない」という恐れを抱く中小企業の社長が自民党に投票しているかもしれません。
政治信条的に自民党には投票できない、しかし野党の掲げる経済政策などに具体性が乏しく、こちらも投票する気にはなれない。悩んだ挙句投票しないという選択肢をとるかもしれません。

護憲派の人たちは、こういった人たちが存在することをまったく考慮していないように見えます。あらゆる情報を調べ、それをもとに思考して、その結果与党に投票する人。あるいは投票しない人。与党の議席率2/3以上阻止を目的とするのであれば、彼らのような人たちの投票行動を変える必要があるでしょう。しかし、彼らは護憲派がいくら「真実」を伝えても投票行動を変えないでしょう。
私はリベラルな思想の持ち主です。安倍政権の憲法軽視の姿勢には断固として反対です。しかし、雇っている従業員10人(とその家族)に対する責任を果たすために、自民党に投票する社長を「無知だ」「愚かだ」と批判することはできません。そういった個人的な考えを抑圧して、護憲のためだけに野党に投票することを迫る行為は、護憲派が批判する全体主義的なものに他なりません。そして、上記のような思考過程を経て野党に投票しなかった人たちを罵るような態度は、立憲主義を「金持ち・インテリの空虚空論」に見せてしまいます。それこそが立憲主義にとって最悪の結末と言えるでしょう。

護憲派に必要なものは、ビジョンです。護憲派を支持し、野党に投票することで、なぜ未来が明るくなるか、その道筋をはっきり示すべきです。
民進党選挙公報を見て愕然としました。候補者は「安倍政権で経済が悪くなった」と伝えるだけ。比例代表の広告では「国民(あなた)と進む」という薄っぺらなメッセージを言うだけ。自民党が、候補者は具体的な政策ビジョンを、比例代表の広告ではこれまでの実績を記載しているのとは大違いでした。本当に勝つ気があるのか、疑わしくなります。
護憲派・リベラルは、「なぜ自分たちは議席を伸ばせないのか」「なぜ自分たちのキャンペーンは無党派層に届かないのか」「なぜ自民党憲法を軽視するような言動を繰り返しながら、それでも支持を広げているのか」といったことに関して、もっと深く分析して、行動を変えるべきです。
しかし、以前の記事でも書いたとおり、リベラルの人たちは負けた時の言い訳がとても得意なので、行動の改善は望み薄かなあと。悲しいですが。

*1:朝日新聞デジタル:参院選投票率52.61% 戦後3番目の低さ - 2013参院選

*2:今回から選挙権年齢が引き下げられましたが、投票率が急上昇(あるいは急下降)する、得票率が急変するという可能性は低いと考えて、仮定を置いています

「バカになれる映画」は凄い~マッドマックスと映画の画(え)~

マッドマックス~怒りのデスロード~を見てきました。立川のシネマシティの爆音上映で。煩くなく爆音で、エンジン音とかの低音が強調されていて、大変に良かった。

大変楽しい映画だったんだけど、一番関心したのは「バカになって見れる」点。

 

 

 マッドマックスは、この手の「知能が低下した」的な感想が多いんですが、よく考えると「知能が低下しても面白さを理解できる映画」って凄い。

なぜなら、マッドマックスは文明半壊後の世界を舞台にしているし、イモータンジョーの教団の支配体制とか、けっこう複雑に出来ていて、それらを理解しないと、映画のストーリーの理解ができず、見てもカタルシスが得られない作りになっているから。で、思い出してみると、複雑なストーリーを知能=言語能力を介さずに理解させるか、ということにおいて、とっても細部まで作りこまれた映画だったと思う。

例えば、イモータンジョーが最初に出てくる場面(1回しか見てないので、誤解があったらすいません)。イモータンジョーに鎧(みたいな装甲)を無言で部下たちがつけるシーン。部下たちの仕草や場の静謐感で、部下が恐怖によって支配されているというより、宗教的な崇拝感情によってジョーに従っていることがわかる。この前振りがあるからこそ、ニュークスがイモータンジョーをまるで神のように扱い、イモータンジョーの目の前で失敗してしまうことが、とても大きな喪失感を抱くきっかけになることが、違和感無く理解できる。

冒頭の5分位で「世界がいかに荒廃しているか」「どのように、イモータンジョーは民衆を支配しているか」「なぜ女性たちはイモータンジョーから逃げているのか」といった映画の基本的な疑問の答えが、セリフではなく映像を通じてさり気なく伝えるようにできている。だから頭を空っぽにしても見れるし、理解できるし、楽しめる。

 

マッドマックスは本当にセリフが少ない。でも全く違和感がないし、むしろその少なさが世界の厳しさ、フュリオサの孤独、ニュークスとケイパブルの愛情、そういった映画の風景を素晴らしく際立たせている。

自分が日本の映画やドラマを見て一番ガッカリするのは「とにかく登場人物がしゃべりすぎ」ということだ(ハリウッドにもそういう作品はあるが、日本ほどひどくないと思う)。登場人物が自分の気持ちや今の状況を口に出してしゃべりまくるので、想像力が働かないし、余韻もない。むしろ言葉が多いせいで本当に大切な言葉が埋もれてしまっているように感じる(マッドマックスと逆)。

マッドマックスはみんな野蛮になっている世界で、ほとんどの奴らはギャーギャー叫んでるだけ。だからこそ、言葉を通じて人と繋がることは稀少だし、言葉を通じてコミュニケーションを繰り返すことで、映画後半のマックスの表情はグッと人間らしくなる。それらを画だけで伝えるために、マッドマックスは非常に作りこまれていると感じた。

で、インタビュー読んでなるほどな、と。 

ミラー監督:実は編集のマーガレット・シクセルは、この作品を最初、サイレント映画として編集したんです。無声映画として成立する作品を作ることができれば、音楽とセリフを入れることでもっと迫力のあるものになる。わたしは、映画作りとは、“目で聞いて、耳で観る”ものだと考えているんですよ。 

「メタルギア」小島秀夫監督、神と対面!映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』ジョージ・ミラー監督×小島秀夫監督 特別対談! - シネマトゥデイ

納得しました。ほんとうに素晴らしい映画なのでおすすめ。