マック食べてる?~一次情報に触れる意味~

 

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

 

 自分が何かと目を通す本の1つに、この本がある。この本を読んで理解してある程度実践できるようになった今、ステマでも何でもなく、仕事のスピードが倍になったと思う。

 

この本の中に「一次情報を大事にしろ」という文章がある。現場に直接赴くことによって、新聞や論文ではこぼれ落ちてしまう情報を掬うことができる。それは明確な仮説を立てる上で、大変重要である、という内容だ。

 

はてなブックマークをよく見ているせいか、最近一次情報の大事さが本当に身に染みるようになった。はてなブックマークソーシャルブックマークなのでどうしても二次情報になる。最近では新聞記事に言及したまとめサイトのブックマークコメント、など「もはや何次情報だ」というものに触れることが多くなってきた。もちろんこういったN次情報も役に立つことが多い。でも、N次の情報で頭がいっぱいになって、本当に自分の言葉で、自分の感覚で述べる事ができる事象が減っている気がする。これは危険なことだと思う。誰かが言ったことを思い出して繰り返すマシーンになってはいけない。

 

最近、マクドナルドについての報道を見ると、「あんな不味いもん食えないよ」という言及が多いし、人気も高い。僕もそんなもんかなーと思っていた。でも「一次情報に触れたほうがいいな」ということでマクドナルドに行って、食べてきた。

久しぶりに食べたマクドナルドは美味くもなってなければ不味くもなってなかった。昔と変わらないマクドナルドだった。期間限定商品の「ハワイアン バーベキューポーク」も値段相応に美味しかった。僕の舌は(自己分析だが)実に普通の感覚だと思う。ということは、マクドナルドの売上が下がっているのは、マクドナルドが不味くなったからではないんだろうし、期間限定商品が仮に売れないとすれば、味を改善しても意味はなさそうだな、ということが予想できる。この予測は現場に行って食べないと自身を持って言うことが出来ない。

 

インターネットで頭でっかちになりやすいからこそ、現場に行って体験するって大事だなあ、とすごく感じる。

曽野綾子氏の「薄さ」に愕然とした


曽野綾子さんインタビュー “差別でなく区別です” 「荻上チキ・TBSラジオ Session-22」 - NAVER まとめ

 

今回の曽野綾子氏の「差別記事寄稿問題」で最近特に思うのが、「知識階級の知識の薄さ」だ。

 

問題の記事や上記のインタビューまとめなどを読んでいて、曽野綾子氏が差別に関する基本的な知識や認識をまるで了解していないことに驚いた。彼女の差別に関する考え方は、そこら辺の中学生と同じような知識レベルであり、世界に対する想像力もそれと同じようなものだ。このレベルの人が一角の人物として新聞に寄稿しているのか、と思うと暗澹たる気持ちになる。

 

私は知識人が人種差別主義者であることに意外性は感じない。ただ、人種差別主義者であるならば差別に対する基本的な論説や問題を踏まえた上で、それを乗り越える形で人種差別の論理を展開するのが、「知識人」に求められる振る舞いだと思う。仮にも政治的にセンシティブな問題を新聞に寄稿するレベルの「知識人」であるならば、「差別ではなく区別」などという使い古された、そして不勉強であることが明らかであるようなセンテンスを使ってはならないだろう。人種差別について語るならば最低限の理論武装はしておいて欲しい。仮に、自分の言説が人種差別的であることを、書いていて読み取れなかったのであれば、その読解力や常識の無さに呆れる。

 

私は曽野綾子氏の寄稿そのものも当然問題だと思うがそれ以上に、「曽野綾子氏の寄稿に問題があると見抜けなかった産経新聞」「曽野綾子氏の文章を掲載しながらも「人種差別には反対する」という稚拙な言い訳をする産経新聞」「人種差別という問題に不勉強であるばかりか、無知であることを認めず傲慢な態度を取る曽野綾子氏」といった知的活動を担うべきと期待されるあるいは担っていると考えられているプレイヤーたちが、どれもこれも知的に「薄っぺら」であることの方が、問題が根深いと思う。

やっぱり「読まないけど馬鹿にする」でいいんじゃないか?


「読んでないけど馬鹿にする」でいいんじゃない? - 食う寝る起きる考える

という題名の記事を書いたら「じゃあ読んでないけどお前の記事批判するわ」と言われたので、色々補足を書く。

 

論点は「~~していない人間は~~をしてはいけない」と「批判していい人間を規定する基準」における、妥当性だ。

ライトノベルについて語るなら読まなくちゃダメだ、というのはなんとなく妥当に思えるが、何を読んだら「ライトノベルを読んだ」と判定できるんだろうか。今から書店に行って「Fate/strange Fake (1)」を読めば「ライトノベルを読んだ」と自称していいのか。「このライトノベルがすごい!」に載っている本を全巻読めばいいのか。「ロードス島戦記」まで読まなくてはならないのか。

「これを読んでいないならば、批判する資格が無い」というブックリストが仮にあるとしても、このブックリストは10人いたら10人違うだろう。なぜAという作品はライトノベルを批判する資格を得るために必要で、なぜBという作品は必要ではないのか。なぜCという作品を読むだけではライトノベルについて批判してはいけないのか(資格が得られないのか)。妥当な基準を誰もが納得できる形で作ることは出来ない。出来ない以上、そういった資格を作ることは間違っている。

もちろん「ライトノベルを批判できる資格の基準」を各々が持つことは自由だ。その基準に他の人が賛同してくれるかもしれない。でもそれは一般的な基準ではないし、そのような基準を持って他人に「お前には批判する資格が無い」と強制することは出来ない。出来るのは「~~をしていない以上、お前は~~する資格が無いと俺は思う」と言うことだけだ。その規範を相手が受け入れるかはわからない。

 

結論としては「お互い思ったことを言い合えばいいじゃない」ということだ。なんにも知らなくても批判することは自由だし、その批判に対して批判するのも自由だ。

"type-100 カジュアルに批判してもいいけどこちらもカジュアルに罵声を浴びせるので"

ほんと、それでいいと思う(罵声はどうかと思うが)。

「読んでないけど馬鹿にする」でいいんじゃない?


私がラノベをバカにしている唯一の理由 - 360万パワー

 

ライトノベルに限らず、「特定のジャンルに対して表層的なイメージから批判すること」はそのジャンルの愛好者から逆に批判されます。もちろん愛好者が語る「もっと読んでから(勉強してから)批判しろ」という批判はわかるのですが、しかし、素人の口を塞ぐような言動はどうかな、と思います。もっとカジュアルに批判してもいいんじゃないかと。

 

はっきりいえば「ちゃんと批判できるほど知識を得る」というのは大変に高いハードルです。ライトノベルを「ちゃんと勉強しました」と言える読書量って多分50冊では利かない。何か意見をいうために何十時間もそのジャンルについての知識を蓄えないといけないとしたら、意見を言えるジャンルは非常に限られてしまう。

ジャンルに対する世間一般のイメージというのは間違っている可能性も大いにありますが、いわば「学習の省略」の機能を果たしていると考えられます。あらゆるジャンルに対して精通することが不可能だからこそ、詳しくない何かについて語るときには世間一般のイメージというものを踏み台にせざるを得ない。これはその人の怠慢ではなく、人間の認知的限界だと思います。

 

ですから「ライトノベルって子供っぽいよね」「ライトノベルって逆ハーレムものばかりなんでしょ?」という批判はアリです。ただ、その際に「自分は全く読んでないし、世間一般のイメージに即して語らせてもらうけど」というエクスキューズをつけ、詳しい人に事実関係の間違いを指摘されたら素直に受け入れる、という謙虚さがあって初めて成立する批判だとは思いますが。

 

「詳しくない奴は黙っていろ」という言説は原理的には「一番詳しい人以外意見を言えない世界」ということになります。それって息苦しくないですか?

結婚するには恋愛は重要だと思う


恋愛至上主義への皮肉たっぷりな月9ドラマ「デート」が面白すぎる|ゆがみちゃん|note

 

この記事(というか「デート」というドラマ)で語られている恋愛至上主義(=恋愛が他のどのような活動よりも重要度が高く、崇高な行為であるという考え方)の否定には共感できますが、恋愛と結婚が別物、という考えには納得出来ない。

 

ドラマ内で主人公たちは「かつては恋愛感情と無関係に結婚していた」「恋愛結婚が一般的になった現代の方が離婚率等が高い」ということを根拠として恋愛と結婚の関係性を否定している。その上で「恋愛感情を排した結婚という契約」の優位を述べる。でもそれは論理として正しくない。

かつての結婚はイエ同士の関係構築の手段やイエの存続の問題と関わっていると考えられる。そうであるならば、当人同士の気持ちなんてものは関係ない。結婚する主体は問題ではなく、「イエ」という主体が重要ならば、感情を無視して結婚できた(させられた)。離婚率の低さはイエというものを守るために女性がイエに隷属させられ、立場としても経済的にも自立していなかったからじゃないだろうか。

登場人物たちが「恋愛抜きの結婚は行われていた」という証拠として示してきた「結婚」は彼らの考える「結婚」とは異なる。彼らは「契約」というスキームで結婚を考えている。契約は自発的な選択が可能な個人間でのみ成り立つ。しかし、過去の結婚は自発的な選択が可能な個人が行っている行為とは言えないのではないか。むしろ「契約」というスキームで考えているからこそ、「契約破棄」としての離婚を選択する人が多くなっているのではないだろうか。過去の「恋愛感情を抜きにした結婚」は「有益な共同生活」を作っていないのではないか。

 

契約というスキームで結婚を考えるのであれば恋愛は欠かせないと思う。この文脈での「恋愛」とはトレンディドラマ的な惚れた腫れたではなく、「相手を知るためにデートや会話を重ねること」である。普通、企業でも契約のまえに支払い能力の有無などについての信用調査を行う。結婚という契約を交わすに足る相手なのか?ということを確かめる上で長い期間(まさに「病める時も健やかなる時も」)、時間を共にすることは必要だと思う。その意味で恋愛は結婚に必要だ。

大学の勉強は「役に立つ」


G型L型大学の区分に全面的に賛成する

L型大学とG型大学、一流以外は職業訓練校に ── 日本の教育と産業構造の行方は? | THE PAGE(ザ・ページ)

 

教育について、特に大学についての議論の中で「役に立たないことを教えていいのか」という議題は必ずと言っていいほど出ます。G型、L型の大学区分についての議論が、この論点の中では最新のトピックであると思います。しかし、この議論はそもそも決着がつきません。なぜなら「役に立つ」という単語が指している射程が殆どの場合議論している人間の間で異なるからです。

 

そもそも「役に立つ」知識とはどのようなものでしょうか。例えば、Excelのショートカットをたくさん覚えていることは仕事の上で結構役に立つでしょう。しかし、ショートカットキーの割り振りが変わったり、そもそもExcelを使わない職場に行くことになった場合役に立たなくなります。ビールの注ぎ方の習熟は特定の年代以上には効果があるでしょうが、限定的ですし、今後役に立たなくなる可能性が高いです。

翻って、経営理論はどうでしょうか?会社に入っていきなり経営理論が役に立つ局面というのはほとんどないでしょう。一方大学で教えるレベルの経営理論ならば長い間陳腐化しないで、有用性は保ち続けるでしょう。

 

知識や技能は「すぐに役に立つか」(即効性)と「どの程度の範囲まで役に立つか」(持続性)が反比例する傾向にあると思っています。学校の試験を考えて下さい。明日のテストの答えは、すぐに役に立ちます(暗記すればテストで満点をとれる)が、役に立つ範囲は狭い(明日のテストだけ)。一方、数学の理論を覚えることはすぐには役に立たない(明日のテストでその問題が出るかわからない)が、役に立つ範囲は広い(今後のテストや、他の単元で利用するかもしれない)。この法則は知識の分野がなんであれ、そして知識の担い手が誰(人だけでなく大学や国家などの集団も含む)であれ、友好ではないかと思います。総合大学の勉強(というか研究)は、入った途端に会社で使えたり、市場価値が高いようなスキルでない場合がほとんどです。しかし、それらで得た知識が役に立たないかというと、そんなことはないのではないか、と思います。それは「役に立つ」という範囲を狭く捉えているからではないでしょうか。

 

これは個人だけでなく国家でも同様です。最近の傾向として生命科学や工学など、今市場価値の高い学問に注力する余り、すぐには役に立たなそうな学問(法学とか文学とか)への資金提供が少なくなっているように思います。しかし、これらの学問においても優秀な研究者や研究機関を備えていることは、長期的な視野で考えたらとても役に立つと思います。

 

通勤ラッシュを緩和する方法を考える


はてなブックマーク - 通勤手当を廃止したらどうなる?高速道路を無料化したらどうなる? - Togetterまとめ

 

通勤ラッシュ緩和のために通勤手当を廃止したらどうなるだろう?という記事が話題を呼んでいる。自分もかねがね通勤ラッシュというものには辟易としているので、この機会に通勤ラッシュ緩和の方法を考えてみたい。

 

通勤ラッシュは「同じ時間に」「同じ交通手段で」「同じ所から」「同じ通勤場所に」「通勤する」から起こる。よって通勤ラッシュを解消するには次の5つの取り組みがある。

  1. 時間帯を分散させる
  2. 交通手段を分散させる
  3. 出発地点を分散させる
  4. 目的地を分散させる
  5. 通勤する人を減らす

これらを検討していく

時間帯を分散させる

現在、通勤時間は午前7時台から午前9時台にかけて集中している。よってこの時間帯からずれた時間に通勤することにインセンティブを与えれば良い。具体的には「各社が決めたラッシュアワーより前(あるいは後ろ)の時間に通勤する客にはキャッシュバック」などが考えられる 

交通手段を分散させる

日本の通勤ラッシュは電車通勤が大半を占めることが原因でもある。ということは電車以外の通勤に対してインセンティブを与えれば良い、具体的には「自転車通勤にも電車通勤と同じ通勤手当を支払う」などが考えられる。

出発地点を分散させる

東西線埼京線の混雑率が高いのは、その沿線に多くの人が住んでいるからである。また、同じ線でも上り下りで混雑率が全く異なるのは人が多く住む地域と住まない地域があるからである。ということは色々な場所に住むことにインセンティブを与えれば良い。具体的には「会社近くに住む人に家賃補助を多めに出す」(これは交通手段の分散にも貢献する)「社員寮を住宅地ではないところに作る」などが考えられる。

目的地を分散させる

丸の内に代表されるようなオフィス街に多くのオフィスが存在し、多くの人がそこに向かうから混雑が激しくなるのである。ということはオフィスが集中していない地域にオフィスを作ることにインセンティブを与えれば良い。具体的には「東京23区外のオフィスには家賃補助や税引き」「オフィス街にあるような高セキュリティのオフィスビルを郊外に建てるビル業者には、助成金を出す」などが考えられる。

通勤する人を減らす

通勤する人が減れば通勤ラッシュもなくなる。よって通勤しないことや通勤者を減らすことにインセンティブを与えれば良い。具体的には「在宅勤務者の割合に応じて減税」「システムの導入に補助金を出す」などが考えられる。

 

 

電車の通勤ラッシュなど百害あって一利なしだと思う(痴漢とかオフィスワーカーの疲労とか)。とはいえ何もしないで状態は解決しないので、是非これらの策を行ってほしいと思う。個人的には「目的地を分散させる」という案が一番実現可能性が高いのではないか?と思っている。